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Sunday May 08, 2022
平和経 第206話
Sunday May 08, 2022
Sunday May 08, 2022
絶対的価値である神様の愛
歴史的に、上流層と下流層の人を一体化させるためには、上流層の人々は下流層に同化させ、下流層の人々は上流層へと引き上げなければなりません。そうするためには、絶対的価値の中心点が必要です。それが神様の愛なのです。
神様の愛とは何でしょうか。それは最上級の人とも共有でき、最下級の人とも共有できるものです。神様の愛は一方的なものではありません。神様の愛は、球形で回転作用をする力です。最上から最下に至るまで自由に移動することができます。それがどこに現れても、すべての所で全体から歓迎されます。そして、いつでもどこでも同化します。
また、神様の愛は、いつでもどこでも絶対的な価値をもっています。私たちが神様の愛の中にいれば、幸福で、すべてが満たされ、保障されます。最下の所にいても最上の人を愛することができ、最上の立場にありながらも最下の立場にある人を愛することができます。このように極めて自由なのです。
このような神様の愛の中にいる人は、世界のどこへ行っても大歓迎を受けるでしょう。これが、統一教会の会員たちが世界中のどこに行っても、人々が心から喜んでついてくる理由なのです。
統一教会は、救いを神様の愛に求めてきました。そして、統一教会が掲げた新しい理念が、共産主義や資本主義よりもはるかに優れたものであるということを知り、神様の愛によって地上天国が実現されるなら、万民はこれを喜んで受け入れるでしょう。
今日の世界情勢を理解するためには、神様のみ旨のある韓国の事情を理解しなければなりません。なぜなら、韓国それ自体の中に、世界のすべてが縮小されて存在しているからです。例を挙げれば、韓国は、現在の世界における主要思潮である民主主義と共産主義をはじめとして、キリスト教と仏教、儒教、イスラームなどの四大宗教がすべて存在し、高い水準を形成しています。東西文化の接点であると同時に、四大強国の政治勢力がこの地を中心としてぶつかり合っています。すべてが韓国自体の中に象徴的に存在しているのです。韓国は、必然的にそれらをみな融合させようとする神様の摂理的運命を担っているのです。
結論的に、韓国は、統一運動を中心とした、次の四つの大きな課題を克服しなければなりません。第一に、超教派超宗派運動による宗教の統一、第二に、勝共運動を通した唯物共産主義の克服による思想的統一、第三に、東西文化を融合した新しい生活様式による文化の統一、第四に、新しい理念による経済の統一です。
そして、私たちの統一運動は、絶対価値である神様の愛で万民を親兄弟以上に愛することによって、統一世界を形成し、地上天国を実現するでしょう。そうして、神様と人類が願う新しい世界の創造が完成されるのです。神様の愛においてのみ、真の勝利があり、真の平和と真の幸福が永遠にあるのです。
韓国を中心としたアジアの将来
先に列挙した四つの点において、韓国は、統一運動によってすべてを統一する能力があります。そのうち、最初の三つの点においては、既に成し遂げられつつあると言うことができます。しかし、最後の経済問題に関しては、今、成し遂げようと努力しているところです。韓国は今、経済が急速に発展しています。しかし、いまだに世界的な先進水準に到達したとは言えません。
それでは、どのようにすれば、これを成し遂げることができるのでしょうか。これを成し遂げることが、私たちの統一運動の使命です。この目的のために、私は高度に発達したドイツの機械技術と韓国の産業との提携を図っているのです。霊的には既に統一運動は、日本とアメリカを連結することに成功しました。アメリカとヨーロツパは文化的に既に連結されています。
今まで神様はこのような摂理を成就するために、第二次世界大戦後、ドイツと日本を経済的に復興させました。特に日本は、今日、世界的な経済大国になりました。ドイツさえも、日本の経済的成功に脅威を感じています。ドイツがこれを防御するためには、韓国と手を結び、品質の良い物を廉価で生産して日本に販売する道と、第三世界圏を同位利益圏に参加させる道以外には希望がありません。そのようにして、日本を参加させれば、世界的な経済統一の道が新たに開かれるようになるでしょう。
現実的に世界に共産主義勢力の侵略政策が存在する限り、世界平和の到来はあり得ず、また経済的統一も不可能です。もし韓国とアメリカ、ドイツ、日本、そして中国が一体となれば、世界的にソ連の侵略に対抗することができます。現在、中国は共産国家ですが、自国の近代化のために日本やアメリカ、ドイツに対して友好関係を維持することを望んでいます。歴史的に見て、中国はソ連に接近することを願わないでしょう。
アメリカは、ソ連に対抗するために軍備の強化を急いでいます。日本、ドイツ、中国とも手を握ろうとしていますが、日本は過去の事情や国内の事情により、軍備増強に意欲的ではありません。
一方、韓国は現在、国家的立場から見ると軍備増強に極めて意欲的です。アメリカとしては、韓国を軸にしようとする考えもありますが、韓国だけではあまりにも小さいので、韓国と中国を合わせて対ソ防衛の軸とすることを考えるでしょう。しかし、中国は、自国の重工業の発展を願ってはいても、その基盤が貧弱なので、今後も相当な期間を必要とするでしょう。
また中国としては、ドイツなどの進歩した産業技術を導入しようとしても、地理的にあまりにも距離が遠く、文化の差も相当に大きいので、それは非常に無理があることです。しかし、ここで中国にとっては良い選択肢があるのですが、それは中国東北部に居留する三百万の朝鮮族を起用することです。
そのような面で韓国とドイツの技術を大幅に活用できるので、統一教会は韓国とドイツを連結しようとするのです。韓国の同胞たちは、中国と日本とアメリカを連結しています。韓国は、過去の歴史的経緯を見ても、他国を侵略した例がないので、中国としては無理なく提携していこうとするはずです。日本は軍備を強化することは願わないとしても、武器を作る技術と能力はもっているので、中国で生産することができるのです。
ここで私たちは一つの結論に到達します。もし韓国が統一教会と共に一つの役割を担当するとしたら、日本とドイツ、そしてアメリカの技術を中国に移転して対ソ防衛を強化し、第三世界圏に最高の技術を連結させて、平和世界へと進み出るでしょう。
これらの国々が韓国を仲介として相互連結することが、様々な面で有益であるということを理解するでしょう。このようにして、アジア三国の経済的連合が形成されると同時に、アメリカとドイツも同時に連結されるので、ソ連共産主義の脅威を防止するだけではなく、勝利の道が築かれるものと見ています。韓国も、そのような意味で東西文明の新基地となり、太平洋文明の中心地として登場しつつあるのです。
私の提案
以上のような内容の結論として、私から一つ提案したいことがあります。それは中国から韓国を通り、日本に至るアジア圏大平和高速道路を建設し、全世界に通じる自由圏大平和高速道路を建設することです。中国大陸から韓半島を縦断して、トンネルか鉄橋で日本列島に連結し、日本を縦断する自由が保障される国際平和高速道路圏のことをいうのです。
もしこれが建設されるならば、アジア三国は文字どおり、平和高速道路で連結され、一体化することができます。そのようになれば、経済や文化交流が頻繁になり、文字どおりアジア文明共同体が形成されるでしょう。中国もこれに賛成し、韓国はもちろん、日本も言うまでもなく賛成するでしょう。アメリカとドイツも自然に加担するようになるのです。
このように、私たちが提唱する理念によってこの案が成就すれば、アジア各国の国民は、お互いに自由に往来できるようになり、その結果、北朝鮮は軍事力による侵略の野望をあきらめて、平和的統合の道を選択せざるを得なくなるでしょう。こうしてアジア人の結束を固め、黄色人種を中心とした上下層を連結するようになるのです。
そして、このような理想を具体化するために、私たちを中心として、日本とアメリカと中国に居住する韓国同胞を結束させ、技術圏を形成するのです。そうすれば、日本とアメリカの方向も自動的に一致し、全世界的に自由が保障された新経済基盤の上に平和高速道路圏を発展させるのです。このようにして歴史的宿願だった上層圏と下層圏を一つにする理想が果たされ、アジアの自由高速道路が完成することによって、黄色人種の大移動が実現されるのです。
私たちはアジアを起点として、絶対価値である神様の愛を中心に、現実的統一経済圏を実現して、東西新文明を結合し、新しい世界の平和を具現しようというのです。このように西洋文明が東洋文明と結合し、新しい太平洋文明を迎えようとする、そのような文明の移動期において記念するに値する、韓国で開かれる「科学の統一に関する国際会議」に参加された百数ヵ国の著名人の皆様の洞察と理解と具体的な協力があることを希望してやみません。ありがとうございました。
Sunday May 08, 2022
平和経 第205話
Sunday May 08, 2022
Sunday May 08, 2022
7.絶対価値と新しい世界の創造
日付:一九八一年十一月十日
場所:韓国、ソウル、世宗文化会館
行事:第十回「科学の統一に関する国際会議」
尊敬する議長、議長団ならびに著名な教授各位と紳士淑女の皆様が、第十回「科学の統一に関する国際会議」に参加するために韓国にお越しくださり、深く感謝の意を表します。
韓国は私の故国でもあります。皆様は、韓国動乱の時に参戦した十六ヵ国の軍人たちの犠牲に思いを馳せられるでしょう。また、韓国は南北に分断された哀れな国ですが、大きな意味のある国でもあります。韓国とアジアを知り、研究してくださることを願ってやみません。これから私がお話しする内容は、政治的というよりは、高次元的な宗教的内容の話として理解してくださることと思います。
人類社会における上下階層間の統一
今日の人類社会には、多様な対立闘争が存在します。人種や民族、あるいは社会において、上下の階層間の対立がありますが、その中でも最も深刻な問題は、貧富の差による上下間の対立です。
白人を中心とした北半球において、アメリカとヨーロッパの先進諸国の人口は概して八億ほどと推定され、世界的に見ると上流層に属しています。それに比べ、中国やインドなど、アジア諸国には三十億の人口が住んでおり、中間の位置を占めています。ここに、五億のアフリカ、中南米、オセアニアなどの黒人を中心とした勢力が、経済的に最も貧困な下流層を形成しています。このような経済的貧富の差は、今日の世界における最も深刻な問題であり、いわゆる「南北問題」として国連などでも常に取り上げられている問題です。
このような問題の解決に対して最も可能性のある道は、欧米の白人社会とアフリカの黒人との中間に位置するアジア人を中心として、上下層を融合することです。二十世紀の今日において、あらゆる重要な問題は、世界的な規模で解決されなければなりません。そのような観点から見るとき、上流層の人々にいかにして自らの意志で進んで下に降りてくるようにさせるかが問題になります。
それだけではなく、有史以来人類は、この上下層間の格差を解消する方向へと歩んできたのは、紛れもない事実です。このような潮流の中で最も代表的な例が共産主義です。共産主義思想は、人類社会における階級間の搾取をなくし、階級のない社会を建設しようとするものです。しかし、共産主義の最大の問題点は、無神論であるということであり、神様を否定した土台の上にそのような理想世界を建設しようとしたところに問題があります。また、共産主義は一部の独裁者の私意によって、すべてを行おうとしたところに問題があるのです。
このような諸問題を克服し、新しい解決の道を探すためには、私たちが今まで固守してきた人本主義を離れ、神本主義による新しい思想、すなわち新しい中心核が必要になります。上下を中心核に一致させる中心的機能が必要です。それがすなわち宗教です。個人や一家庭の救援よりも世界救援を目指している宗教は、本来このような使命を成就しなければなりません。このような上中下の各層を結集するためには、その中心核的使命を果たす宗教が必要になります。
それでは、統一教会とは一体いかなる宗教でしょうか。正にこのような歴史的な使命を果たす運命をもっているのが宗教なのです。この目的のために私は開拓の道を歩んできました。世界の多くの人々が私に会おうとするのは、実に歴史的に見て避けられないことなのです。
韓半島の文明的位置
私たちの住む地球は、陸地と海洋とに分かれています。その中でも半島は、地理学的に見ると大陸と海洋を連結する中間的位置にあります。したがって、古くから半島は、文明の形成において常に注目に値する場所となってきました。古代文明が繁栄したギリシャやローマも半島であり、イベリア半島にあるスペインとポルトガルの文明も半島で発達しました。しかし、このような文明は、今日、世界へと拡大し、新しい東西文明が出現しなければなりません。アジアの韓半島は、正にこの文明の出現地なのです。
世界文明の方向は、世界を一周しながら発達していきます。すなわち、エジプトの大陸文明、ローマとギリシャの半島文明、イギリスの島嶼文明、アメリカの大陸文明へと発達し、そして文明は西進して太平洋を渡り、日本の島嶼文明へ、ついには韓半島文明として結集するためにアジアに連結されているのです。ここで結束した文化は高次元的な文化として新世界を創造するでしょう。
島国の日本は、アジアで初めて西洋文明を定着させました。次は半島文明時代です。韓半島は、東洋と西洋の文明が一致する場所です。歴史学者シュペングラーが指摘していますが、文明は、一年に春夏秋冬があるのと同じように、興亡を繰り返してきました。今は、大西洋文明時代が過ぎ去り、太平洋文明の時代が訪れるときです。
韓国の地政学的現状を見ても、アメリカ、日本、中国、ソ連という四大強国の中央に位置しています。アメリカはソ連に対抗するために多大な努力を傾注しています。そのソ連が、ヨーロッパではドイツを東西に分割して半分を占拠し、またアジアにおいては韓半島を南北に分けてその半分を支配圏に置いています。
ところが、その四ヵ国の勢力が対立しているのは、ヨーロッパではなく、韓半島を中心としたアジアです。ですから、アメリカは、より大きな大陸であるアジアに関心をもたざるを得ない立場にあります。このような情勢から見ても、韓国はすべての面で東西南北間の宿命的対決を解決すべき、そのような基本的役割を果たす国であると思います。
ここで現実的な可能性を見ることにしましょう。韓国人は正義感が強く宗教的で、極めて有能であり、多方面に能力を発揮します。一つのことで行き詰まれば、直ちに大胆かつ勇敢に他の所へと方向転換できる適応能力があります。これは韓国人の優れた特徽であると十分に見ることができるでしょう。
私はこのような韓国民族の中で生まれ、統一教会はこのような背景で発展してきました。私たちはこのような歴史的結実として、黄色人種を中心として上下階層の人々を融合、一体化させる世界的な使命を果たすべきであると思っています。統一教会はこのような目的を果たして余りある宗教的な内容を具備しています。この目的のために、私は世界の至る所で、あらゆる部門において最善を尽くす決意をもっています。
Sunday May 08, 2022
平和経 第204話
Sunday May 08, 2022
Sunday May 08, 2022
6.絶対価値と人類平和のための模索
日付:一九八〇年十一月二十七日
場所:アメリカ、マイアミ、フォンテンブロー・ヒルトン•ホテル
行事:第九回「科学の統一に関する国際会議」
尊敬する議長、著名な科学者、学者各位、ならびに紳士淑女の皆様。第九回「科学の統一に関する国際会議」に参加してくださった皆様を、心より歓迎する次第です。本大会はこれまで、科学と絶対価値に関して真摯な討議と研究を重ね、大きな成果を上げてきました。また、それだけではなく、私はこの会議が人類の切実な願いである平和の模索にも、多大に寄与したと考えております。
今回の会議のテーマは「絶対価値と人類平和のための模索」です。このテーマに関して、「いかにすれば世界平和は達成されるのか」ということに対する私の見解を表明したいと思います。
人類平和を渇望する今日の世界
皆様も既に御存じのように、今日の世界は、ますます混沌とした状態に陥りつつあり、これに比例して、人類は日増しに平和をより一層渇望しています。それならば、平和はどのようにして達成されるのでしょうか。
今日の世界は、秩序が破壊された状態にあります。したがって、平和を成し遂げるということは、破壊された秩序の回復を意味します。秩序を回復するためには、主体と対象が自らの位置を知らなければならず、相互に統一された関係を確立しなければなりません。
平和は、世界的段階に限って求められるものではなく、国家や社会、または家庭の段階においても願われています。さらには、個人においても心と体の平和を渇望しています。このような平和に対する様々な段階のうちで、最初に成し遂げられなければならないものはどれでしょうか。先に世界平和が成し遂げられるならば、その基盤の上に国家、社会、家庭、そして最終的には個人の平和も成し遂げられるだろうと考えがちです。しかし、これは誤った見解です。
それは、実際に平和を成し遂げるために必要な順序とは反対です。ですから、先に個人的な平和が実現されなければなりません。その次に、家庭の平和が成し遂げられ、そのような基盤の上に、社会と国家、そして世界といった、それぞれの平和を期待することができるのです。これは個人が家庭の基本単位であり、家庭は社会と国家の基本単位だからです。
多くの指導者たちは、優れた組織と立派な思想を通して、社会秩序と世界平和を回復することができると信じています。しかし、現実において、ただ単にこのような二つの手段だけでは、人類平和は絶対に実現されません。
国連のような国際機構と共産主義や民主主義などのような思想体系は、それぞれ独自の方法で世界平和を実現するために努力してきました。しかし、平和はまだはるか遠く、世界は時間がたつにつれ、ますます混乱状態に陥っていくのです。
絶対愛で一つになってこそ真の平和が実現
平和に対する追求が個人の平和から出発しなければ、それは再び失敗せざるを得ません。それでは、個人の平和はいかにして成し遂げられるのでしょうか。
それは、個人が絶対愛を所有し、それを実践することによって成し遂げられるのです。なぜなら、愛はすべての統一の前提条件だからです。統一は愛の基盤の上で成し遂げられ、平和は統一の基台の上でのみ達成されるのです。
愛には、相対的な愛と絶対的な愛があります。相対的な愛というのは、時と場所によって変わりますが、絶対的な愛は、変わることのない永遠の愛です。相対的な愛は、自己中心的なので、利害関係によって変わりますが、絶対的な愛は常に人のために生き、全体に奉仕する不変の愛です。このような愛こそが、正に神様の愛に違いありません。
相対的な愛によっては、統一は決して成し遂げられません。ただ絶対愛によってのみ、統一は可能なのです。個人は、絶対愛によって心と体が一つになるとき、そこで平穏、喜悦、満足、生き甲斐などを体恤するようになります。そのような個人においてのみ、平和の基準が確立されるのです。
一つの家庭において、父母と子女、夫と妻、兄弟姉妹などが各自の位置で絶対愛を実践するとき、その家庭の統一は成し遂げられるのです。そのようになるとき、その家庭には幸福と調和、そして何よりもまず平和が満ちあふれるでしょう。
したがって、このような平和の家庭が集まって形成される社会もまた、平和の社会になるのです。家庭と家庭が互いに調和して助け合うようになれば、その社会は明るく平和な社会になることは疑う余地がありません。なぜなら、秩序が確立され、統一が成し遂げられるからです。同様に、このような平和の社会が集まって統一された国家は、間違いなく平和の国家となるのです。
神様の愛が基盤となった世界平和
国家というものは、様々な社会の単なる集合によってのみ形成されてはいけません。国家は、愛の個人と愛の家庭を基盤として成立した有機的な構成体でなければなりません。そこで完全な秩序と統一が成し遂げられなければならず、それでこそ国家において真の平和が実現されるようになるのです。
言い換えれば、国家が平和を実現し、維持するためには、神様の愛を必ず必要とするという意味です。いくら国家の基礎になる家庭が絶対愛の中にあったとしても、有機体としての国家は、国家的な水準で絶対愛を実践することができなければなりません。そして、内的には、政府と国民が統一体を形成しなければならず、外的には、隣国と絶対愛で一つになることによって国家間に真の平和が立てられるようになるのです。
言うまでもなく、世界平和は、すべての国の平和が成し遂げられるとき、初めてそれを基盤として成就することができるのです。各国が、貿易や交流の面で自国の利益を優先する国家的利己主義を清算し、絶対愛で他国と世界に奉仕する国家となるとき、そして各国がそのような国際的な風土を恒久的にもち続けるとき、人類の永遠の平和が保障されるのです。
世界平和は美、真、善の絶対価値の実践から
以上のことから、世界の平和は、個人の平和に始まり、家庭の平和を経て、社会、国家の平和へと拡大した結果、樹立されるということが、はっきりと分かります。このような観点から、私は絶対愛と絶対価値についてお話ししようと思います。美、真、善などの価値は、愛を土台として形成されます。例えば、愛の実践は善として評価されます。すなわち愛が実践されるとき、善として現れるようになっています。したがって神様の愛である絶対愛を実践するとき、そこに絶対善が現れるようになるのは自明なことです。
そして、平和のために絶対愛を実践する個人の行為は善です。同様に、平和のために愛を実践する家庭の行為もやはり善となります。社会や国家、世界においても同じです。言い換えれば、個人、家庭、社会、国家を問わず、真の平和を樹立するためには、絶対価値、すなわち絶対美、絶対真、絶対善を実現しなければならないのです。特に絶対的な善の実践が切実に求められます。そのようになれば、秩序を乱し、破壊する、いかなる悪の要素も介入することができないからです。ところが、美、真、善などの精神的価値は愛を土台として成立するので、絶対愛、すなわち神様の愛を知らなければ、絶対的な美、真、善は実現されません。
このような絶対価値が実現されない所に、真の平和は存在することができません。したがって、人類の真の平和のためには絶対愛が実践されなければなりません。ところが、絶対愛が実践されるためには、まず絶対愛に対する理解がなければならないのです。
私は先ほど、絶対愛は利他的で、全体に奉仕する愛であり、永遠不変であると言いました。それでは、なぜ絶対愛は利他的であり、不変なのか、また、なぜ平和は、ただ愛を通してのみ成し遂げられるのか、という疑問が解決されなければなりません。
真の平和のためには絶対者を正しく理解しなければならない
このような疑問を完全に解くためには、絶対者がどのような方であり、その方が宇宙と人間を創造した動機と目的が何かということが明らかにされなければなりません。創造の動機と目的は、愛の実践、平和の樹立において不可欠な標準となるからです。概して、いかなる計画も、それが実践されるためには必ず一定の目的が先に立てられます。目的を立てない行為は無意味なものです。
人間が絶対者によって創造され、絶対者の愛を実践するようにつくられたとすれば、人間の創造に動機と目的があったことは明らかです。その動機と目的を明らかにするためには、絶対者がどのような方かという問題、すなわち正しい神観がまず立てられなければなりません。
このように正しい神観が立てられることによって、絶対者の創造の動機と目的が明らかにされるのであり、それによって平和のために絶対愛を実践しなければならないその理由も明白になるのです。そのように見るとき、人類の真の平和のためには、絶対者を正しく理解することによって、その方の愛を実践できるようになり、最終的にはその方の絶対価値を実現できるようにならなければならないという結論に至るのです。これが、私が皆様にお話ししようとする結論です。
最後に、皆様がぜひ、今回の会議を通して輝かしい業績を上げられ、人類平和の探求に大きく寄与されることを衷心より願いながら、私の話を終えたいと思います。ありがとうございました。
Sunday May 08, 2022
平和経 第203話
Sunday May 08, 2022
Sunday May 08, 2022
5.科学の限界と神様
日付:一九七九年十一月二十三日
場所:アメリカ、ロサンゼルス、センチュリープラザ•ホテル
行事:第八回「科学の統一に関する国際会議」
親愛なる議長、ならびに参席者の皆様。この度、第八回「科学の統一に関する国際会議」に参加してくださったことを感謝申し上げます。皆様が参加してくださることで、この会議の重要性が年々高まりつつあることを、本会議の創始者として光栄に思います。
今回のテーマである「絶対価値の追求における学術的責任」に関連した「科学の限界と神様」について、いくつかの意見を述べたいと思います。近来の科学の発達に伴い、人類は大きな期待をもち、科学技術の進歩を通して、霊的、物質的困難から抜け出せるものと信じてきました。
人類に貢献することを本来の使命として自覚してきた科学者たちは、究極的な科学的真理を追求すると同時に、科学技術が人間の生活におけるすべての面で応用できるように努力してきました。その結果として私たちが得たものは、目覚ましい経済的発展、物質的豊かさ、そしてそれ以前には見いだすことのできなかった肉体的平安でした。
しかし、このような功績にもかかわらず、今日の科学技術は大きな欠点をもっており、公害、資源の枯渇、非人間化、核兵器の蓄積といった問題をもたらしています。すなわち、人類の幸福を目的として始まった科学は、その成功とともに恐怖と不安感までももたらすようになったのです。その理由は何でしょうか。それは、科学的中立性を固守するあまり、目的や価値に関して考慮しなかったからです。
私がここでお話ししようと思うのは、人間は、その起源から価値をもっているということです。人間は神様の創造物です。そして、人間は創造目的に一致した明確な価値観をもって生きるように創造されました。本来、非常に大きな価値を所有してきた創造物であるにもかかわらず、人間はその価値観を無視して科学の万能性を信じ、それを万能薬としています。その結果、科学技術は次第に損害を増大させる原因となっているのです。
科学は、人間生活において単なる手段であって、目的にはなり得ません。人生の目的は、神様の創造目的を実現するところにあります。人間は霊と肉の結合体です。したがって人間は肉的な生命を土台として、価値ある人生、すなわち愛と真、善、美の生活をするようになっています。便宜的に言えば、科学技術は、霊的生活に適合した肉的生活に必要なものです。
ですから、価値ある生活を強調しなかったり、無視したりする科学は、かえって価値観の破壊をもたらし、今日のような恐怖と不安の現実を招くのです。真の価値観を追求し、発見することによってのみ、この不安な現実の中から人間を救うことができるのです。したがって科学は、絶対価値に基づくこの価値観に一致しなければなりません。
それでは、この絶対価値はどこで発見することができるのでしょうか。私の考えでは、絶対価値は神様の愛の中でのみ見いだすことができ、神様の愛による真理と善と美こそが、正しく絶対価値なのです。結論的に、科学技術の悪用による被害から人間を解放するためには、科学自体が神様を認識し、神様の愛と同じ方向に沿ってその技術を応用しなければなりません。
次に、自然界の真理を追求するためには、科学だけでは限界があるということについてお話ししたいと思います。二十世紀に入り、科学はついに哲学の領域に入って真理を追求するようになりました。東洋と西洋の古代哲学がそうだったように、科学は宇宙の起源に関する問題を扱わずにはいられなくなったのです。
特に物理学と生物学は、これまで長い間議論されてきたにもかかわらず、いまだに解決点を見いだすことができずにいる本体論の問題に直面しています。実際に量子物理学や分子生物学における一部の実験は、このような本体論的問題を探求するために行われました。
すなわち、物理学は科学的な実験を通して、物質の本質が何であるかという疑問をもって、本体論を研究してきました。最初の回答は原子であり、二番目の回答は素粒子でした。結局、量子力学の回答は、物質の素粒子をエネルギー自体に結びつけるものでした。同様に、生物学では生命の本質とは何かという本体論的問題を扱った結果、生命の秘密はDNAの特性にあるという回答を得ました。
このようにして、宇宙の真理を追求する中で自然科学は多くの事実を発見し、驚くべき知識の数々を集めています。しかし、これらも人間が提起する問題を究極的に解決するにはほど遠いと思います。
量子物理学は、物質の土台がエネルギーであることを確信していますが、私たちはいまだにエネルギーの根源を知り得ず、それ以前の存在段階が何かも分からずにいます。また、エネルギーがなぜ、どのようにして、それ以前の段階から存在の段階へと移行するのかも分かっていません。なぜ多様な分子が存在するようになったのか、なぜ分子は陽イオンと陰イオンという独特な形態をもっているのか、などという問題は、いまだに明白になっていません。
分子生物学は、生命の本質がDNA情報に含まれていると主張していますが、そこにも重大な問題が残っています。すなわち、DNA情報を構成する四つの構成単位は、どのようにして、その情報を得るようになったのか、などの問題です。
科学が真理を追究する中で、驚くべき発展を遂げたにもかかわらず、このように、いまだに科学自体に多くの問題が解かれずに残っているという事実は、何を意味しているのでしょうか。これらの残された科学的問題は、今日、自然科学の領域の外にあるものと考えるしかありません。
今日までの科学は、真理を追究するに当たって、特定の現象に対する直接的原因を研究してきましたが、存在の全体的動機や理由に対する探求を扱ったことはありません。したがって、科学が直面した最後の挑戦は、存在の究極的理由に対する問題です。物質の本質とは何かという問題において、いまだに探求されていないのが「存在の理由」です。生命の本質とは何かという問題において、生命の存在理由それ自体が探求されていません。
私が提起しようとする内容をさらに明確にすれば、まず目的性を認めなくてはならず、その目的性を認める前にその目的をつくり出した意志、すなわち万物を超越する宇宙的意志を認識しなければならないということです。この宇宙的意志を「神様」と呼ぶとき、未解決の問題を明確にする第一段階は、神様の創造目的を悟ることであり、第二段階は、物質と生命の現象において、物理学的、化学的要素とともに、各自を一定の目的へと向かわせる原因的動機の存在を感知することです。
以上の内容を整理すると、人間の幸福のために発展してきた科学は、今日、人間の生活に障害と被害までもたらしました。このような被害から抜け出す唯一の方法は、神様の愛を中心とする真の価値観のもとで科学を発展させるところにあるのです。より多くの科学者たちが、科学が限界に達したことを認めるようになれば、その限界を超越する鍵が、すべての物質および生命的現象の背後で、神様の創造目的に従って動く動機にあるということを、彼らは発見するようになるでしょう。
以上、私が申し上げた点が、今日、科学が直面している最も重要で切実な問題であると確信する次第です。著名な学者の皆様が今回のテーマに関して討議なさる際に、このような内容が参考になれば幸いです。
最後に、絶対真理に関する皆様の研究と真理の追究が成功することを願います。この会議の発表に現れる皆様の努力の結実が、世界平和に貢献することを確信する次第です。ありがとうございました。
Sunday May 08, 2022
平和経 第202話
Sunday May 08, 2022
Sunday May 08, 2022
病気と宇宙力の保護
この広大無辺な大宇宙は、主体と対象の共同目的体なので、それ自体を保護する宇宙力をもっており、同時に主体と対象が完全に一つとなった存在を保護し、育成します。その一方で、主体と対象が一つになれない存在や、一つになったものを侵害する存在があるときには、これを排斥する作用をするのです。
ですから、存在の永続性が可能なのです。このように助ける力を相応作用といい、反対の力を相克作用と言うことができます。あるいは作用、反作用とも言うことができます。
これは物質世界においても人間世界においても同じです。私たちの心と体が一つになっているときは、これを助ける宇宙力の保護を受けているので喜びを感じるようになりますが、心と体が一つにならないときは苦痛を感じて反発するようになります。
病気によって受ける苦痛も同じです。体内で主体的な要素と相対的な要素が調和統一されない場合、宇宙的な保護力を喪失する一方、その反作用によって苦痛を感じるのですが、それが大きな病苦となるのです。このとき、早く主体と対象が調和統一する道を開いてあげるためのものが、医者の診断による投薬です。これは個人でも家庭でも同じです。
結婚前は、男性は男性同士、女性は女性同士で一緒にいることを好んでいたとしても、結婚後には、夫婦となった二人の間に誰かが介入してくることを喜ばないのも同じ道理です。結婚後の家庭は、主体と対象が完全一体化して、宇宙的保護力に力を与えられて、幸福と満足を感じるようになるのですが、そこに第二の女性や第二の男性が介入してくると夫婦が一つになる力が破壊される恐れがあるので、反発作用を起こすようになるのです。
その反発作用というのは、必ずしも悪いというわけではなく、このような刺激によってその人もその夫婦のように、早く出ていって主体あるいは対象を迎え、一体を成し遂げることによって、宇宙力の保護を受けて永続するように促進する、そのような力になるのです。すなわち、完成を促進させる力になるのです。
すべての存在物は第一原因に似て繁殖する
電気作用も、主体であるプラスと対象であるマイナスが一つになれば、円満に作用しますが、プラスとプラス、マイナスとマイナスの間では反発するようになっています。いかなる存在であれ、このように主体と対象を探し求めて関係を形成すれば、同じ法則によって安定と喜びを感じるようになるのです。
以上のような論理により、ある主体と対象が授受作用によって一つになれば、宇宙的な保護圏に入っていくようになるのです。私たちが見る宇宙の中のいかなる作用も、第一原因的存在に由来する結果的作用なので、その中心となる原因的作用体としての存在があるということは当然の理論です。子女が父母に似るように、結果は原因に似るので、万物を見てその原因的存在を究明することができるのです。
すべての植物の種を見れば、その内部は相対的に二片になっていますが、それが完全一体となったまま一つの皮の中で胚子を通じて授受作用をすることによってのみ、生命を繁殖するのです。卵を見ても、黄身と白身の間に胚子があるのですが、一つの殻で包まれて一体になっているのです。人間の胎児も同じです。
すべての生物は、主体と対象が授受作用によって一体化すれば、人間なら人間、植物なら植物は、その原因に似て繁殖し、結局根本に還元するのです。これらすべてが究極の第一原因に似ているとすれば、その第一原因的存在も主体と対象が完全に一体化した基本形態をもっており、すべての存在に対して主体格の立場にあるという結論になります。
宇宙万物の段階的生成の目的
それでは、宇宙万物のこのような段階的生成の目的は何でしょうか。人間という存在のために形成され始めたと見るのです。すなわち人間は、すべての存在世界の実であり、縮小体であると同時に、モデルと言えるので、鉱物と植物、動物のあらゆる要素をすべて合わせもっている最も高次元の存在なのです。しかし、人間もあくまでも結果的存在なので、ある第一原因的存在があり、それに似て生じたという結論が成立するのです。
すなわち、人間を対象とする絶対主体的存在が必ずあるのですが、私たち人間が人格的存在であるならば、その主体も明らかに人格的存在に違いないのです。その第一原因的絶対者のことを、哲学では原存在と言い、宗教では神様と呼ぶのです。
今日、進化論や唯物弁証法、認識論、唯心論、唯物論などにより、世界の思想界は矛盾と混乱に陥っているので、これを再検討し、絶対真理を樹立してこそ絶対的価値の世界の形成が可能です。絶対価値的な存在は永遠、不変、唯一の存在です。それでは、宇宙の中で、永遠、不変、絶対の原理とは何でしょうか。それは原因と結果、主体と対象の関係であるという結論になります。
これを人間社会に適用すれば、親子関係と夫婦関係がその核心になるのですが、一つは縦的な主体と対象の関係であり、一つは横的な主体と対象の関係です。両者は次元の高い主体と対象の関係にありながら、縦的に合わさったものが新しい主体となり、横的に合わさったものが新しい対象となり、円満な授受作用を通して、渾然一体となって立体化し、調和した球形運動をするのです。
それが愛を中心とした力の作用であり、人間社会の基本単位である理想的家庭のモデルです。そのような意味で、愛を最も価値的なものと認めざるを得ません。
絶対価値の永遠の幸福が約束される世界
愛の究極的な根源は、私たち人間から始まったのではなく、絶対不変の原因的主体から始まったので、それを中心とした愛の家庭が、人間社会の理想を具現する基本単位となるのです。ここで初めて絶対価値の理想実現のための愛の家庭から、国家、世界へと拡大し、愛を完成した統一圏の世界、それこそ絶対価値の永遠の幸福が約束される理想世界が必ず訪れるのです。
私は今回の大会が、今日直面する人類社会の諸般の問題を解決して、今後の進路を正し、「絶対価値の探求」という共同目標を達成するために、学問が調和、協力することによって、人類の平和と幸福と愛を成し遂げた理想世界を建設することに大いに貢献することを願いながら、お話しいたしました。ありがとうございました。
Sunday May 08, 2022
平和経 第201話
Sunday May 08, 2022
Sunday May 08, 2022
4.科学の調和と絶対価値の探求
日付:一九七六年十一月二十七日
場所:アメリカ、ワシントンDC、ヒルトン•ホテル
行事:第五回「科学の統一に関する国際会議」
尊敬する議長、著名な科学者、そして教授、学者の皆様。きょう、このように第五回「科学の統一に関する国際会議」に参加された皆様を心より歓迎する次第です。特別にこの会議に引き続き参加してくださった皆様。誠にうれしく思います。
皆様は、多年にわたって絶対的な価値の問題を討議してこられましたが、今年も「絶対価値の探求」というテーマのもとに、きょう再びここにお集まりになりました。
人間と宇宙万象の存在の始原
絶対的な価値を究明しようとすれば、人間と宇宙万象の存在の始源を明らかにしなければなりません。宇宙の始まりが「有」からか、「無」からかということが問題になりますが、皆様も御存じのように、自然科学も、社会科学も、哲学や宗教も、無の世界から真理を探求するのではなく、有の世界からある原因的存在を探し出し、そこから始まって生成された人間を含む森羅万象の存在と運行の原理を見つけだそうというものです。結局、存在の内容を明らかにし、存在物の間を関係づけることによって、すべての存在の理由と価値を探し立てようということなのです。
物質形成に必要な最小単位を元素とすれば、それは有として規定されています。その元素形成の基本が無であるはずはなく、絶対に有から始まったという論理が成立するのです。現代科学は、物質の最小単位である原子までも、その根本となるある力によって存在すると見ていますが、その力もやはり有から生じたという結論に達するのです。
極小から拡大した大宇宙であり、原因から出発した結果だという観点から考えるとき、私たち人間も原因的な存在ではなく、あくまでも結果的な存在なので、その原因的な存在が必ずあるということが分かります。
無から有が発生したという一部の学者たちの非論理性を是正し、起源となる絶対有から小有、大有に生成、発展したという論理体系を立てるということは、すなわち、この上なく科学的な存在がまず存在し、それが万有の原因となり、その結果である小有から大有までを連結して有機的に作用するようになるということなのです。
このような点から見て、従来の進化論は再検討されなければなりません。進化しようとすれば、作用しなければならず、作用しようとすれば、力によってのみ可能なのですが、それならば、作用しながら、より大きい力を生み出すことができるのでしょうか。作用では力を消耗するだけであって、より大きい存在をつくり出す力が生じるということは絶対的に不可能なことです。力は作用すれば消耗するのが原則なのですが、それが退化するのではなく、逆に進化することが可能なのか、そしてより価値ある、高次元的なものへと発展する方向性をもてるのか、ということが問題です。
相応作用と相克作用による宇宙の発展
一見進化のように見えますが、宇宙万物の段階的生成過程において、ド•フリースの言う突然変異とい説明は決して成立しません。より価値のある発展的なものになろうとすれば、そこに第三の力が加えられずしては不可能なことです。今日、すべての動物が進化せず、人間で進化が停止したとすれば、結果的な存在である人間を生み出した第一原因的な存在の究極的目的が、明らかに人間だったということは否定できません。ここで私たちは、まず「第一原因的存在が先にあった」という論理を確立できるのです。
次は、この宇宙の中で、存在が先か、力が先かが問題になります。いかなる存在も、何らかの力なしでは、生存し、作用することができません。各存在の個体内で作用する力と存在と存在の間の作用を可能にする力があります。それでは、このような力はいかにして生じるかということが問題です。力が生じるためには、それに先立って、何らかの主体と対象がなければ絶対に生じることができません。
すなわち、主体と対象の関係が先有条件となって、力が生じるのです。例えば原子にも、主体である陽子と対象である電子があって、初めて作用するのです。力の作用は、主体と対象が一つになるための目的から始まるものなので、力が先か、主体と対象が先かと問う場合は、間違いなく主体と対象が先であって、力の作用は、主体と対象が一つになるための過程的現象なのです。
そして、この主体と対象との関係の差と軽重によって、力の作用がそれぞれ異なるので、様々な力が作用するたびに、その方向性と目的性が変わるようになっており、それによって多種多様な存在世界が形成されるのです。このように、いかなる主体と対象の間の力の作用にも、方向性と目的性を帯びて作用するようになっているのは、第一原因的存在の中で基本的な主体と対象が先に存在し、方向性と目的性を帯びて作用しているからなのです。
個体内で主体と対象が完全に一つとなった存在は、他の存在と関係を結ぶために、主体的立場、あるいは対象的立場を取り、それと一つになることによって、より大きな方向性と目的性を帯びた存在へと発展するのです。主体的存在と対象的存在が作用するところでは、常にある共同利益のためにやりとりしながらより大きな存在に発展するのです。
Sunday May 08, 2022
平和経 第200話
Sunday May 08, 2022
Sunday May 08, 2022
3.科学と絶対価値
日付:一九七四年十一月二十二日
場所:イギリス、ロンドン、ロイヤル•ランカスター・ホテル
行事:第三回「科学の統一に関する国際会議」
尊敬する議長、高名な科学者、著名な教授、ならびに学者の皆様。「国際文化財団」により発起された第三回「科学の統一に関する国際会議」に御参加された皆様を、心より歓迎する次第です。
過去二回の大会が、第一回は一九七二年十一月にアメリカのニューヨークで、第二回は一九七三年十一月に日本の東京で開催されたことは、皆様も御存じのことと思います。本大会の期間、自由で率直な意見交換が行われる雰囲気がつくられ、持続することを願い、そのような雰囲気づくりのために私は最善を尽くしてきました。また大会による豊富な成果に大いに満足し、その成果のために物心両面から協力してくださった関係者の方々に感謝の意を表す次第です。
科学の発達と人類の当面の課題
今日においては、ますます深刻な問題が発生し続けており、それらが人類の当面の課題として登場しています。このような挑戦的な問題に対する解決には、偏向的、あるいは局部的なアプローチよりも、全世界的なアプローチが求められます。ですから、本大会にお集まりになった多くの著名な学者の方々の英知と知識が実に求められ、渇望されているのです。
私も一科学者として、多大な関心をもって科学と技術の発達を注目しています。科学や技術、そしていわゆる科学的方法と呼ばれるものが、人類の生活に多大な影響を及ぼしてきたことを私は知っています。科学は、現象界を観察し、研究することで、肉体の感覚によって感知できる枠を越えて、現象界を拡大、拡張させてきました。
顕微鏡によってのみ見えるバクテリアの存在を私たちは知っています。人間の心など及びもつかないほど、天文学的なスピードで計算するコンピューターに導かれ、月の世界へ旅行した人もいる反面、それを日常的に可能なものにしようと語っている人もいます。
肉眼で見れば地球は平らに見えます。しかし、科学は私たちをして地球が丸いことを認めさせたのです。ダイヤモンドは固い固体のようですが、実際それは真空の空間を回転している散乱状態の原子群であることが分かるとき、驚かざるを得ません。より抽象的な次元になると、ある実体から拡大された実体への変化は、古典力学から量子力学への変化と決定論的方式から蓋然(がいぜん)的方式への変化とによって描写されるのですが、その二種類ともが、常識的に生きている人々を当惑させるのです。
科学の発達は私たちに途方もなく多くの知識を提供してはくれますが、私たちはいまだにその知識を自分のものとして受容できない無能さと、情報を体得し、その知識がより深く暗示するところを十分に理解できない苦痛を味わっているのです。この無能力は、不安と混乱と半信半疑の状態へと引っ張っていくのですが、それは確固たる思考の基盤と基準を喪失してしまったところに起因するものです。結局、私たちは、自分自身と科学の発達によって突然膨張した現実との間において、不均衡な状態に置かれていることを感じているのです。
超国家的世界観と協力の必要性
人間の限定された思考機能の不調和と不均衡に対する解答を、私たちが精神界で探し出す可能性を考えるとき、禅や瞑想、そしてその実践が東洋で長いこと行われ、また大切にされてきたことが、最近、西洋でも科学的研究の論争対象になっていることは決して偶然ではないと言えます。霊感に関する研究は、学問世界で学者の相当な関心を引いてきました。特に、いるかが人間と明らかにコミュニケーションがとれるという発見は、注目に値します。同じ分野で、植物が人間の愛と感情の状態によって反応することが実験で立証されてきました。このような発見は、動物や植物の世界が意識や理性的な面で欠けているという現在の私たちのもつ見解が、限定されたものかもしれないということを示唆するものです。
人間と別の被造物との間に調和の取れた共存の実現が可能であり、すべての存在の中心である人間が、本質的な調和と一致の中で全被造世界を回転させる回転軸として役立っていることを私たちはまた想像することもできます。他に注目に値する事項としては、教育者と医者の役割です。それらは途方もなく多くの量の情報を正確かつ速かに処理するコンピューターの能力によって、徹底して影響を受けると言っても過言ではないでしょう。素粒子と宇宙論に関する未来の研究が、空間と時間に対する私たちの観念を変化させるかもしれないと幾人かの科学者たちは示唆しています。
ローマクラブによって示されたある研究は、近い将来に公害、人口増加、天然資源の枯渇、そして急速な工業化によって悲惨な結果がもたらされることを告げています。最近繰り返される核実験のために、オゾンが減少していることが発見されています。皆様も御存じのように、大気圏におけるオゾンの存在は、地球上の生物の生存にとって絶対必要不可欠なものです。なぜなら、オゾン層がなくなる場合には、蛋白質の分子が破壊されるからです。このような諸問題に対する解決策は、科学者たちだけの努力や、ある特定の人やグループまたは国家の努力だけで見いだされるものではありません。先ほど言及したローマクラブの研究は、世界の資源と環境の限界を明確に指摘し、このような世界的な問題に対する妥当で完璧な解決のためには、全世界的なアプローチと協力という努力が絶対に必要であることを明白に提起しました。
このような問題は、世界のすべての民族間に献身的態度と協力を必要とし、いかなる社会や国家の利益をも超越した世界観を必要とするものです。そのような協力精神は、全人類が同じ家族の構成員であると自覚する時にのみ、成し遂げられるでしょう。そのようなイデオロギーに対する人間の革命的な変化は、長い間必要とされてきたのであり、またそれは人間の生存のために必要不可欠なことです。そして、世界のすべての国の教育制度において、競争に勝利した人だけが獲得できるという競争の長所と適者生存の論理が過度に強調されてきました。これは平和な共存の世界へと導くための健全な人間の努力を侵食する伝染病のようなものです。いずれにせよ、現在の有識者の間では、そのような競争の強調が変わりつつあり、生存のために協力が不可欠な要素であることを悟り始めているのです。このような見解に照らしてみるとき、教育の目的とその哲学は、深層から変革が起きなければならないのです。
過去に人間生活を豊かにすることに対する科学と技術の貢献を、私たちは深い反省もなしに受け入れました。今や私たちは疑問を抱き始めています。いくつかの不安に満ちた疑問が心に生じているのです。私たちはより幸せになっているのか。私たちは道徳的により健全になっているのか。他の人を愛し、関心をもち、思いやりをもつようになりつつあるのか。
このような問題に対する解答は、統計的な結果分析によって単純に発見されるものではありません。なぜなら人間は、別々に測定することのできない、数多くの様相として現れるからです。実例として愛、理想、創造の喜び、神様に対する信仰を、皆様各自が考えてみてください。このような人間らしい人生の姿を保存し、啓発する問題は、私たちの探求すべき最大の課題として残されているのです。
科学を正しく利用する問題
このような課題を考えれば、科学的探求の発見によって考案された莫大な量の情報を判断し、正しく利用するという問題は、深刻かつ真剣なことです。科学の価値を過度に強調する風潮を再検討しなければならないかもしれません。科学的真理というのは限定的なものです。すなわち、一時代の科学的真理が、次の時代には認められないこともあり得るのです。限られた事実に基づいて設定されたモデルの設定過程で、理想化、単純化、近似化の過程を繰り返します。結局、真理に近いものを知ることができたとしても、絶対的真理は知ることができないのです。科学は高度に成長し、それが人間を支配する様相を示しています。
科学は事実の決定に際しては、厳格に徹頭徹尾、精密で細密でなければなりません。しかし、科学情報や業績を活用する段階に際しては、人間の創造力の一領域として、その位置を忘れてはいけません。科学は、美術や音楽作品のように、使われ、調整され、評価されるように、人間の領域内にとどまらなければならないでしょう。
人類歴史を振り返ってみるとき、いかなる時代でも、新しい未開拓の分野、文化の発展である程度の頂点、そして医学や他の科学の全盛期など、多くのものの発展が歴史上にありました。それでも過去における科学と技術の発達は、自然の征服と開発を主な目標としてきました。
今日、正にその科学は、私たちに、新しい倫理的基準の確立を要請しています。その新しい倫理は、自然を愛し、人間の価値を再検討する問題、そして人間相互間における協力の必要性と関連していなければなりません。地球上のすべての生物が調和して共存する理想世界を建設できる新しい価値観と新しい倫理、道徳的基準を確立できるよう努めなければなりません。
科学と技術の発達は、私たちが人間として存続し、私たちの生活の中で人間愛を大切に守っていくことが必須不可欠であることを真剣に反省するよう促す論争点を提示してきました。科学技術界が、人類の福祉のために動員され、人間活動の協力精神が科学技術を扱う人間にとって有効なときにのみ、これらすべてのものが可能であると私は確信します。
私は、皆様からそれに対する解答が出てくることを心より渇望し、期待しています。皆様の見解と知恵に従い、各自の研究結果を収集することによって、これは間違いなく実現されるでしょう。現在の世界をより高い次元と絶対価値の世界へと連結させて導いていく架け橋の役割を遂行してくださることを、私は心から強く求めてやまない次第です。御清聴いただき、誠にありがとうございました。
Sunday May 08, 2022
平和経 第199話
Sunday May 08, 2022
Sunday May 08, 2022
2.現代科学と人間の道徳的価値観
日付:一九七三年十一月二十一日
場所:日本、東京、帝国ホテル
行事:第二回「科学の統一に関する国際会議」
私はきょう、世界最高の知性である科学者の皆様が大勢集まる中、この第二回「科学の統一に関する国際会議」が日本の東京で開催されたことを心よりお祝い申し上げ、併せて、本会議の締めくくりに当たり、しばらくお話しできる機会を頂き、限りなく光栄に存じます。
これまで本会議の開催のために、様々に御苦労された日本の準備委員会の教授の方々の労苦に対し、まずは称賛の言葉を捧げたいと思います。特に「現代科学と道徳的価値」の問題を今回の会議のテーマとして採択した準備委員会の決定と、それに呼応して世界各地から来られ、このテーマに関して発表し、討議された多くの学者の方々の積極的な熱意に対し、深甚なる謝意と敬意を表す次第です。
人類共同の福祉と科学の進路
皆様のこの画期的な集会を慶祝する意味で、しばしこのテーマと関連して、私が考える所感の一端を披瀝しようと思います。本会議において科学と道徳的価値の問題が扱われるようになったのは、今日の科学的現実がこの問題を緊急に扱わざるを得ない状況下に置かれているからだと思います。この問題について、今回の会議では十分に討議がなされたことと思います。
今まで目覚ましい発展を持続しながら、人類の福祉増進に大きく寄与した現代科学が、今日においては若干の副作用を呈していると見るのは、単に私だけの考えではないでしょう。今日の人間は、科学に対してその主体性を失いつつあり、自ら発展させた科学技術を統制する能力が次第に弱まりつつあるように、私には思えます。
今後このような状況が続くならば、近い将来に惨儋たる事態が現れるだろうと言い切ったとしても、それは過言ではありません。このように主体性が次第に失われていく理由について、私は次のように考えます。
すなわち、科学は価値観の問題を軽視せざるを得なかったと、そのように理解しています。月日の経過に伴い、科学が次第に分派的に流れ、ついには道徳や価値の問題を全面的に無視する傾向が現れ、科学に対する人間の主体性と主管性が弱化、または喪失し始めたのではないかと思われます。
人間が科学を発達させた動機には、様々なものがあると思いますが、究極的にはあくまでも、人間共同の福利、すなわち人類共同の平和と繁栄を実現することにあると見て間違いないでしょう。しかし、科学の領域が細分化され、その方法がより一層分析主義へと流れたために、人類共同の福利という価値の方向とは少し異なる方向に発展してきたのです。
人間が科学に期待したことは、「人類共同の福利」だったのであり、主体である人間の幸福でした。これに対して、科学が成し遂げた成果というのは、対象としての物質的環境の改善、また生活手段の開発だったのではないでしょうか。人間が望んだのは、主体の福祉でしたが、科学が成し遂げたのは、対象の改善だったのです。
したがって、私は、人間の要望と科学の成果との不一致から、人間の主体性の喪失がもたらされたのではないかと思います。科学では、生活環境と手段の改善、開発のような対象の問題解決に力を注ぎながらも、それと同時に、主体性の問題も共に扱うことが望ましいことであると言うことができます。物質的で分析的な方法とともに、精神的で統一的な方法を併用し、さらには、人間の尊厳性を肯定しながら、一定の道徳的価値観の土台の上で科学が扱われなければなりません。人間の尊厳性が尊重される科学的風土が造成されるとき、公害のような不安な問題は、未然に防止できるのです。ここに人間の本然の姿、すなわち人間の本性が問題になるのではないかと思います。
人間本然の姿と価値基準の設定
私は人間の姿を、心身の調和が取れた統一体と見ています。価値または善の目的を中心として、精神と肉身が調和の取れた統一を成し遂げている統一的存在が本然の人間なのです。
ですから、科学の本来の姿というのは、このような人間の二重性に似て、精神的側面と物質的側面の両面を統一的にもち合わせたものではないでしょうか。ここで精神的側面とは、道徳的価値の領域のことであり、物質的側面とは、物質の現実を扱う従来の科学の領域を意味します。したがって、これからの科学は、自然科学と社会科学の統一だけにとどまらず、道徳的価値観の問題までも扱う総合的な科学になることを、心から切に願うというのです。
このような科学は、「文化科学」と呼べるのではないでしょうか。このような科学が道徳的価値観を扱うためには、その価値基準の決定が問題になるのではないかと思います。しかし、一般的に価値基準というものは、時代や環境によって異なるものです。古代の価値基準と現代の価値基準とは異なり、東洋と西洋の価値基準が同一でないことが分かります。
したがって、人間共同の福祉のための価値基準を決定しようとすれば、時代と環境を超越した、普遍的で絶対的な要素を見つけ、それを基準として立てるしかありません。このような絶対的な基準の設定は、取りも直さず新しい道徳的価値観の樹立を意味すると言えるでしょう。
まずその絶対的基準の本質を考えるとすれば、それは正に家庭倫理の根幹になる「愛」です。なぜなら、家庭倫理の愛こそ、真の愛であり、隣人への愛、同胞への愛、そして人類愛の基本であると見るからです。またその愛はアガぺー的な愛であり、絶対的な愛なので、太陽が万物を一律的に照らすように、万人に真の喜びをあまねく与えることができ、古今東西を問わず不変であると見ることができるからです。
ここで私たちは、このような絶対的愛の主体である絶対者の存在を考えることができるでしょう。このような絶対者がいるとすれば、そのような存在を新しい価値観の基準として立てることが最も望ましいことではないでしょうか。
少なくとも私はそのように考えています。なぜならば、この絶対者は、決して観念的存在ではなく、歴史を通してそれ自体を現してきた実在的存在だからです。私たちは歴史上に数多くの宗教指導者や聖賢たちが、時や場所を変えて出現したことを知っています。彼らはみな、人間の良心と心情に訴え、隣人への愛を実践することを促しました。彼らの教えに従った民族や国家は平和と興隆を享受したのであり、従えなかった民族や国家は混乱と衰亡に陥ったのです。
今日も、多くの人たちは、この世界的な混乱の中で人類を救うことのできる現代の聖賢の出現を、意識的にも無意識的にも待望しています。このような事実は、愛の主体者である絶対者がいて、歴史や現実の背後で宗教指導者や聖賢たちを立て、彼らを通して自らの愛を現し、道徳的価値の世界を実現しようと計画していることを示していると言えるでしょう。
したがって、このような絶対者を全人類が共に認め、受け入れるならば、道徳的価値の世界の実現はそれほど難しくないと思います。ですから、このような絶対者を道徳的価値の基準として立てるのが最も望ましいと言えるでしょう。以上、私の所感の一端をお話しいたしました。
最後に、皆様が今回行われた立派な研究と真剣な討議が、人類の真の平和と福祉に大きく寄与する画期的な成果として現れることを心から祈りながら、これで私の話を終えようと思います。ありがとうございました。
Sunday May 08, 2022
平和経 第198話
Sunday May 08, 2022
Sunday May 08, 2022
神様に似るための愛の実践
それでは、精神改革運動は、どのように展開するのでしょうか。それはまず善の中心を確立しなければならず、そこには愛の中心が決定されることが絶対に必要です。なぜなら、善というのは、愛の実践だからです。
それでは、その愛の中心とは何でしょうか。それが正に神様なのです。宇宙生成以前からある唯一、永遠、不変の存在なのです。この愛というのは心情の流れです。内的な心情が外的に流れていくのが愛です。ですから、神様の本質は心情です。このような神様が、正に存在論的に扱った宇宙生成の根本原因である統一的存在だったのです。
この根本原因からの宇宙の生成こそが神様の宇宙創造だったということは言うまでもありません。それでは、神様は、どうして宇宙と人間を創造することができたのでしょうか。それは、神様は心情をもっているからです。心情があるところにおいてのみ生命が現れることができ、生命があるところに発展運動(創造)が起きるからです。その創造には必ず目的があるのですが、その理由は、本来心情というものが目的を指向するものだからです。
ですから、創造の目的は、心情を充足させる喜びにあると言わざるを得ません。そして、この喜びは、被造物、特に人間が神様に似た時に訪れるのです。ですから、神様の愛と創造性に似た人間と国(天国、福祉世界)が、神様の創造しようとされた目標だったのです。そのことは、人間の理想がそれを追求することを見ても知ることができます。理想とは、当然享有するようになっている世界を追求する熱望なのです。
人間が幸福の世界を常に理想として追求するのは、その幸福の世界が、正に人間がその中で生きるように計画された創造の世界であることを意味します。このような世界が正に神様の愛と創造性に似た世界であり、喜びの世界なのです。
ところが、今日まで科学の驚異的な発展によって、この世界は、神様の創造性に似るようにはなったのですが、神様の愛にはまだ似ることができずにいるのです。神様の愛に似るためには、愛を実践しなければならず、善の生活をしなければなりません。愛の実践が、すなわち善だからです。
ところが、善の生活のためには、愛の主体である神様を善の中心基準にしなければなりません。神様は中心であり、本質なので、現象の世界がいくら変化流転でも、神様の愛は永遠不滅であり、したがって神様を善の基準とすれば、ここに絶対的な価値観が確立されると同時に、永遠な幸福の世界が実現されるのです。
神様と人間が願う理想的な人間像と世界像
このように理想の世界は、創造の目的が実現されなければならない世界であり、神様に似なければならない世界なので、人間は、常に愛に満ち、調和し、平和な生活を願っているのであり、いつも新しいものを創造しながら環境を改善していくことを願っているのです。創造とは、単に製造だけを意味するのではなく、創意的な活動全
神様に似るための愛の実践
それでは、精神改革運動は、どのように展開するのでしょうか。それはまず善の中心を確立しなければならず、そこには愛の中心が決定されることが絶対に必要です。なぜなら、善というのは、愛の実践だからです。
それでは、その愛の中心とは何でしょうか。それが正に神様なのです。宇宙生成以前からある唯一、永遠、不変の存在なのです。この愛というのは心情の流れです。内的な心情が外的に流れていくのが愛です。ですから、神様の本質は心情です。このような神様が、正に存在論的に扱った宇宙生成の根本原因である統一的存在だったのです。
この根本原因からの宇宙の生成こそが神様の宇宙創造だったということは言うまでもありません。それでは、神様は、どうして宇宙と人間を創造することができたのでしょうか。それは、神様は心情をもっているからです。心情があるところにおいてのみ生命が現れることができ、生命があるところに発展運動(創造)が起きるからです。その創造には必ず目的があるのですが、その理由は、本来心情というものが目的を指向するものだからです。
ですから、創造の目的は、心情を充足させる喜びにあると言わざるを得ません。そして、この喜びは、被造物、特に人間が神様に似た時に訪れるのです。ですから、神様の愛と創造性に似た人間と国(天国、福祉世界)が、神様の創造しようとされた目標だったのです。そのことは、人間の理想がそれを追求することを見ても知ることができます。理想とは、当然享有するようになっている世界を追求する熱望なのです。
人間が幸福の世界を常に理想として追求するのは、その幸福の世界が、正に人間がその中で生きるように計画された創造の世界であることを意味します。このような世界が正に神様の愛と創造性に似た世界であり、喜びの世界なのです。
ところが、今日まで科学の驚異的な発展によって、この世界は、神様の創造性に似るようにはなったのですが、神様の愛にはまだ似ることができずにいるのです。神様の愛に似るためには、愛を実践しなければならず、善の生活をしなければなりません。愛の実践が、すなわち善だからです。
ところが、善の生活のためには、愛の主体である神様を善の中心基準にしなければなりません。神様は中心であり、本質なので、現象の世界がいくら変化流転でも、神様の愛は永遠不滅であり、したがって神様を善の基準とすれば、ここに絶対的な価値観が確立されると同時に、永遠な幸福の世界が実現されるのです。
神様と人間が願う理想的な人間像と世界像
このように理想の世界は、創造の目的が実現されなければならない世界であり、神様に似なければならない世界なので、人間は、常に愛に満ち、調和し、平和な生活を願っているのであり、いつも新しいものを創造しながら環境を改善していくことを願っているのです。創造とは、単に製造だけを意味するのではなく、
創意的な活動全体を意味するのであり、常に新しいものを創案し、計画し、改善し、生産するなど、あらゆる活動を意味します。
ところで、神様は統一的存在なので、人間も統一的でなければならず、社会生活も統一的でなければなりません。すなわち愛しながら創造し、創造しながら愛する統一的な人間、統一的な世界にならなければなりません。
今日まで人間は、輝かしい科学的発展を成し遂げることによって、創造的生活面においては神様に似たと言うことができますが、愛の生活においては、全く神様に似ることができずにおり、そのために悲しみと苦痛と不幸が継続しています。愛は調和なので、愛のないところに調和はあり得ず、調和のないところに平和や幸福はあり得ないので、ここから様々な悲惨な様相が起こるようになるのです。
こうして、神様も人間も、神様に似た理想的な生活、理想的な世界を願っているのです。これを言い換えれば、神様が願い、人間の本心が願う理想的な人間とは、創造的であり、なおかつ神様を中心とした愛を実践する善の人間です。また神様と人間が願う理想的な世界とは、環境を改善する創造的活動が継続されながら、個人と個人、国家と国家の間に愛が満ちあふれる大調和の統一世界なのです。このような新しいタイプの人間が新しい統一世界で生活できるようになってこそ、長い間人間を苦しめてきた一切の悲しみや苦痛、争いは永遠に跡形もなく消えていくのです。
万民共通の方向
このように本然の人間と世界は、神様に似た善の人間と善の世界であるにもかかわらず、今日、現実的な人間と現実的な世界は、神様に似ていない悪の人間、悪の世界になっています。
これは、人間と世界がまだ本来の姿になっていないからです。したがって、今日の人類を不安と混乱の中から救い出すためには、本然の人間の姿勢と世界の姿を回復して、これを現実に具現しなければならないのです。そのためには、善の絶対基準を探し立て、善の生活をしなければなりません。
善の基準とは、愛の中心である神様のことを意味します。今日、全人類が苦痛と混乱の現実を抜け出そうと激しく身もだえし、自由と平和を何よりも渇望しているのは、人類の本心が善の基準を探し求めており、愛の中心を探し求めていることを表しているのです。愛の中心を求めて、地上に永遠の幸福の世界を成し遂げようとすることが、万民共通の願いであり、方向なのです。
ここまで、神様と人間が願う世界は、創造的生活と愛の生活を営む統一世界であるということ、この世界ではじめて神様と万民の願いが実現するようになるということ、そして愛を実践するためには、愛の中心を探し立てなければならないということをお話ししました。この愛を実践するためには、ここに必ず規範が確定されなければなりません。なぜなら、愛の生活だけでは、決して調和をつくり出すことができないからです。愛の生活は秩序を必要とし、秩序のためには規範が要求されるのです。
規範とは、人間の行為を規制する理法であり、原理です。これが正に道徳であり、倫理なのです。したがって愛の生活をうまく営むためには、真の道徳と倫理を確立し、それを実践しなければなりません。これを言い換えるならば、統一世界に適用される道徳と倫理は、現代人にしっかりと守られるものでなくてはならないということです。過去の道徳や倫理が崩れてしまったのは、現代人の生活が物質主義へと流れたこともその原因ではありますが、その価値観が現代人の理性に合致していなかったからでもあります。ここに新しい価値観、新しい道徳、新しい倫理の確立が切実に要求されるのです。
完全な善の統一世界建設
それでは、新しい価値観は、どのように確立されるのでしょうか。それは過去のすべての思想と宗教の教理を統一できる一つの高次的な統一的思想体系によって、初めてその確立が可能なのです。過去のすべての思想と宗教はそれぞれ、それなりの価値観(倫理観)をもっており、それぞれ長所をもち、また今日でも有益な点があるにもかかわらず、新しく訪れる時代には適用されなかったので、今日ではほとんど捨てられたようになりました。したがって新しい価値観を確立するためには、過去の倫理観の長所をすべて生かしながら、同時に現代人の生理に合致する内容の価値観が立てられなければならないのですが、そのためには、過去のすべての思想と宗教の教理を統一した「統一思想」が出現しなければならないのです。
なぜなら、過去のすべての価値観と倫理観は、その時の思想や宗教を基盤にして確立されたものだからです。こうして「統一思想」による新しい道徳、新しい倫理が立てられるようになるとき、初めて完全な善の統一世界が建設されるようになるのです。このように統一世界の建設のために、新しい価値観を世界的に立てていくことが、正に世界道徳の啓蒙なのです。
結論として、「統一科学」の役割について一言お話ししようと思います。「統一科学」がかなり以前から、細分化された分科科学の真理を統一しようとする意図のもとに体系化されてきたことに対して、まず深い称賛を捧げる次第です。科学の細分化は、ちょうど機械を部品に分解するように、科学の専門化だけでは科学全体の統一的機能が麻痺してしまい、科学の使命を完全に遂行する上で支障を来すと言っても過言ではありません。
「統一思想」と一つになるべき「統一科学」
このことから、一部の先覚的科学者たちによって、「統一科学」の旗のもとに過去の多くの科学者たちが発展させた科学的真理が一つに総合的に統一され、一貫した一つの新しい哲学的な科学体系として整理されたことは、実に高く評価されるべき慶事と言わざるを得ません。それはあたかも、精神的な面において、現代的な新しい価値観を樹立するために過去のすべての思想と宗教を一つに統一する「統一思想」が出現したのと同じように歴史的な事件なのです。
既に先ほど繰り返し指摘したように、科学は人間の物質的生活を改善することがその本領なので、「統一科学」は実践面において、前よりも一層効果的に物質的生活の改善に寄与することが期待されます。しかし、本然の人間が精神と肉身の統一体であるように、社会生活も、精神と物質が統一された生活です。
理想世界も、愛と創造が統一された世界なので、ここで何度も明らかにしたように、物質的生活の改善だけでは、本当の幸福の世界は実現できません。したがって、不可避的に「統一科学」はその役割を完全に果たすために、「統一思想」と再び一つにならざるを得ないという結論が出るのです。
このような統一が成し遂げられるようになるとき、長い間の課題だった宗教と科学の統一が実現され、名実共に福祉世界、幸福の世界、善の統一世界が成し遂げられるのです。この時こそ、古い制度と思想は完全に消え、新しい制度と思想による理想的な統一世界が実現されるのです。ありがとうございました。
Sunday May 08, 2022
平和経 第197話
Sunday May 08, 2022
Sunday May 08, 2022
世界の道徳啓蒙に対する統一科学の任務
日付:一九七二年十一月二十六日
場所:アメリカ、ニューヨーク、ウォルドルフ•アストリア•ホテル
行事:第一回「科学の統一に関する国際会議」
人間は社会生活を営む中で、誰しもが幸せな生活を追求するようになります。幸福になりたいと思うのは、誰しもがもつ抑え難い人間の欲望であり、理想です。数千年の人類歴史において、このような理想をもたなかった人は一人もいないでしょう。
人間生活と幸福な世界
理想は常に現実とは相反するものであるにもかかわらず、人間は、現実生活の中で理想を実現するために不断の努力を傾けてきました。そのようにして、政治、経済、社会、宗教、科学など、人類文化の全般にわたって、目覚ましい発展が遂げられてきたのです。そうして今日、人間は、古代や中世に比べれば、比較にならないほどの高度な福祉社会を実現しました。
このような発展において決定的な役割を果たしたのは科学でした。科学の発達がなかったとすれば、今日のこの驚くべき繁栄は不可能だったでしょう。この事実は、科学者はみな、幸福な理想社会の実現を自らの使命としてきたことを意味します。
すなわち、科学者たちは、人間の夢を実現させようという熱い使命感をもって科学技術を発展させてきたことを意味するのです。たとえ科学者の研究成果が、時には一部の権力者の不義の目的に悪用されたことがあったとしても、科学者の基本精神だけは、常に人類の福祉社会の具現を目指していたのです。
科学の総合化、統一化の傾向
このように科学は、人類の夢を実現することに、その目的があります。ところが、過去において科学は、立派な発明がなされたとしても、民族的、国家的障壁に遮られ、それが直ちに人類全体の福祉に寄与することにはならなかった時がたびたびありました。科学文明にも国境がなければならないという主張も時としてあったのです。しかし、科学文明は本質的に、人類全体のものであるべきであって、ある特定の国家や陣営の専用物であってはならないのです。そのため、強い使命感をもつ科学者たちが、共同福祉の目的を妨害する不義の勢力に対しては、強力に抵抗したことを私たちは記憶しています。
科学者の中には、各自専門分野によって、時には当面の研究に没頭するあまり、人類福祉に貢献する精神を忘れてしまう科学者もいましたが、ほとんどの科学者たちが基本姿勢として、人類の平和と繁栄に寄与しようと努力してきたことは疑う余地がありません。
科学には様々な分野がありますが、そのどれを取ってみても、人類幸福の実現を目標にしない部門は一つもありません。物理学、化学、医学がそうであり、生物学、地質学、天文学がそうです。
もちろん過去数世紀の間に、科学はあまりにも分析的方法に傾き、多くの部分が専門化され、科学の細分化現象が起きたことは事実ですが、最近になって、総合的な方法によって細分化された知識を総合し、統一する、希望的な傾向が現れつつあります。「統一科学」は、その顕著な例と言えるでしょう。いずれにせよ、今日までの科学が、たとえ細分化現象を起こしたとしても、各部門がそれぞれの立場で、ひたすら福祉世界の実現という一致した目標、一致した方向を指向してきたことは事実であり、また今後もそれを指向していくことを信じて疑いません。
しかし、今日の世界情勢を見ると、非常に嘆かざるを得ない現象が続いています。それは目覚ましい科学の発展と驚くべき経済の繁栄とは裏腹に、いまだに不幸な事態が世界の随所で起きているという事実です。
善の世界と幸福の世界
科学者たちのかくも切実な念願と努力にもかかわらず、いまだに発展途上国では貧困と文盲と疾病が、そして国際間には緊張と戦争と敵対行為が続いており、人類は華やかに発展した文化の陰で、依然として悲しみと不安と苦痛の生活をしているのです。多くの指導者がこの不幸を取り除き、平和と安定を樹立しようと努力しているにもかかわらず、ただ「平和」の言葉だけが世界にあふれているばかりで、人類は日に日に不安と苦悩と危機意識の中に陥りつつあるのです。これはいったい何が原因なのでしょうか。
それは、人類の行動を規制してきた従来の価値観が崩れたからです。倫理と道徳がその機能を喪失したからであり、善の基準が消え失せてしまったからです。西欧社会における神中心のキリスト教の価値観、東洋社会における天道思想中心の儒教の価値観など、従来の人間の精神を指導してきた価値観は、すべてその機能を喪失してしまいました。これが今日、科学者たちの熱意に満ちた努力にもかかわらず、人類の不幸が消えない根本原因なのです。
このような事実は、何を意味しているのでしょうか。それは、科学者たちの念願が実現されるには、必ず先に善の世界が実現されなければならないことを意味するのです。善の世界とは、価値観が確立された世界のことをいいます。それは道徳の世界であり、宗教の世界です。しかし、この価値観は全く新しいものでなければならないでしょう。現代有識者の実証的で論理的な精神を指導できる新しい価値観でなければなりません。
ここに、今日の科学者たちは、また一つの使命を担わなければならないという結論に至りました。物質的生活の向上だけを試みてきた自然科学だけでは、人類の真の幸福を保障することが難しくなったのであり、人間の精神を改革する作業までも、科学者が遂行しなければならなくなりました。それでは、その理由について説明することにします。
人間をはじめとした万物は、すべて質料的な側面と形相的な側面とを兼ね備えた統一的存在であることは、誰も否定できないでしょう。人間は心と体の統一体であり、動物は本能と体、植物は生命と物質、そして無機物は作用と物質の統一体です。ところが、存在論的に見るならば、宇宙は結果の世界であって、そこには必ずその究極の原因がなければならないとしたときに、唯物論はそれを物質であると主張し、唯心論、すなわち観念論はそれを精神であると主張しています。
統一的原因と統一的結果
しかし、結果の世界がそのような統一体であることから推論すると、その原因も、質料と形相の二つの要素を統一的にもち合わせている一元的存在でなければならないのです。一元的で統一的な原因であってこそ、そこから統一的な結果の世界が生じるのであり、また統一的結果には、必ず統一的で一元的な存在がその原因にならなければならないのです。
したがって、宇宙の根本原因を物質としてのみ考える唯物論は誤りであると言わざるを得ません。その原因となるものは、決して物質ではなく、それより先んじている非物質なのです。ですから人間というのは、その統一的原因から生じた統一的存在であって、人間を物質的存在とだけ見てはならず、また精神的存在とだけ見てもいけません。
したがって人間生活を向上させるにしても、肉身の物質的生活だけを改善しては完全な幸福は実現されないのであり、物質と精神の両面の生活を統一的に同時に改善していくときに、初めて真の幸福が到来するようになるのです。
今日までの科学は、その担当した分野が物質的な領域だったために、特に物質的生活の改善にばかり力を注いできたのです。ですから、残念ながら、科学者たちの切実な念願と熱心な努力にもかかわらず、人類はいまだに不安と混乱の中から抜け出すことができずにいるのです。ここでやむを得ず、科学者たちは、人類の真の福祉のために、そしてこれまで成し遂げてきたその高貴な努力の成果を守護するためにも、精神生活の改革運動に参加しなければならないという結論に至りました。精神生活の改革というのは、新しい価値観を確立することによって、善の世界を建設することであり、新しい道徳社会を建設することです。