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Sunday May 08, 2022
平和経 第196話
Sunday May 08, 2022
Sunday May 08, 2022
皆様は原理を学んで知っているかもしれませんが、生心とは何でしょうか。生心とは、心と霊が合わさって、新しく一つの目的に向かって動くものです。神様を中心として私たちの良心と一つになり、理想的な自分をつくり出せる動機的な心です。ですから、その生心がなければ、霊界と真の愛と関係を結べる、自らの根源を探し出せないのです。生心が私に生じれば、体も喜び、すべてそれについていきます。自動的にこれが一つになるのです。今に至るまで、人間にとって一番問題となることは、体と心が互いに離れているということです。霊的な力が私に臨み、生心的な起源さえできれば、心と体が自然に一つになるのです。そのような根本から革命が起こり、根本から是正する根源を発見できない限り、私たちは理想を訪ねていく道理がありません。動機があってこそ結果が出てきます。宗教は生心を啓発しようということです。生心を中心として、数多くの宗教があります。ありとあらゆる形態が、すべてあるのです。
神様は、尊厳あるお方です。霊界と肉界は一体にならなければなりません。真の愛が現れなかったために、霊界と肉界が統一できなかったのであり、真の愛が現れなかったために、心と体が分かれたのであり、真の愛が立たなかったために、宗教と政治が分かれたのです。真の愛を中心として、すべて一つになるのです。個人、家庭、社会、国家、世界、天宙が、すべて連結されます。私たちの手で、そのようにしなければなりません。そのようにしなければ、本然の天上天国と地上天国を相続できないのです。霊界と肉界の一致をどのように成し遂げるのでしょうか。真の愛によって一つにするのです。
世界人類の中で、霊界を知らない人は数多くいます。神様を信じる人々も、「霊界はあるだろうか、神様はいらっしゃるだろうか」と言いながら、はっきり分からずにいるのです。しかし、霊界はあります。世の中のお金持ちがこれから幸福の園を造ろうというとき、自分のすべての財産をつぎ込んでも造りたい気持ちがあるのと同じように、天地を創造された神様は、御自身の住む所をどのようにお造りになったのでしょうか。霊界は、どの部分を探して凝視しても、千年眺めても飽きない美しい世界です。想像を絶しています。世界で最も良いものがあるとしても、霊界に比べれば何でもありません。霊界の一角にもなれません。ですから欲しいのは、この地上ではありません。先生に言わせれば、この地上は神様の願いにかなっていないので、帰りたいのです。
一般の人の大部分は、今も霊界を考えません。「生まれたので、ただ父母に侍って家庭で暮らしている。このように生まれたから、このように生きる」と思って生きています。そのように生きるすべての生活の中心は何でしょうか。どのように食べ、どのように暮らすかということです。ですから、一番重要なことを衣食住と捉えています。どのように住むかという問題、どのように食べるかという問題、どのように装って暮らすかという問題、これが中心です。もちろんそこには、人間関係において人倫と道徳があって向上する、互いが発展し互いが喜べる内容がありますが、その道徳基準が異なり、民族が異なり、国家が異なり、世界のすべての文化背景の違いによって、生活基準や社会制度がすべて異なるのです。このように見ると人間が探し出すべき本然の基準、すなわち創造本然の基準と今日、私たちが暮らしている生活の標準として立てていく人倫と道徳の基準の間には、途方もない差があります。これが一つに収拾されずにいるのです。
本然の世界に基づいて、私たちが生まれ、生きてから、行くべき所はどこでしょうか。これがはっきりしていません。ですから一般の人たちは、霊界があるのかないのか、神様がいるのかいないのか、分からずにいるのです。しかし、「統一原理」を学んだ人たちは、霊界が確実にあることを知っています。信じているだけではなく、知っているのです。なぜでしょうか。多くの体験を通じて知るのです。今日、統一教会が世界的な基盤を形成するに至った背後を調べてみるとき、多くの体験過程を経てきたというのです。そのため、霊界がないとは言えない立場にいる人々が、「統一原理」を知る人々です。
「統一原理」を知っている人々は、どのような道を行くべきでしょうか。神様が願う道に従っていかなければなりません。天意の道に従っていくのです。天意とは何でしょうか。個人が行くべき天意の道があり、家庭が行くべき天意の道があります。そして、社会、国家、世界、霊界が行くべき天意の道があります。霊界は、間違いなくあるのです。
神様がいて、霊界があるなら、どのようになるでしょうか。ある人は、「神様がいるとしても私たちとは関係ない」と思うかもしれませんが、それは誤った考えです。「霊界があるとしても私とは関係ない」と言うのは、まるで「私は家庭の一員であって、国は必要なく、世界も必要ない」と言うのと同じです。そのため、より大きい神様がいて、より大きい霊界があるとすれば、より大きいものと関係を結ぶことを、私は願うのです。関係しているだけでなく、関係して何をすべきなのでしょうか。一つにならなければなりません。一つの目的に向かって行かなければならないのです。
使徒パウロが霊界の第三の天(コリントII一二•二)を見て体験したことが、彼にとって根気強く宣教活動を続けることができた原動力になりました。そのような体験がなければなりません。先生もそれと同じです。
先生は、死を恐れません。何がそのようにしたのでしょうか。愛です。いくら獄中に放り込まれても、先生は消化できます。ですから今日、このように反対する環境を消化して、屈服させてきたのです。私の手ですべて屈服させたのです。
霊界の創造
霊界は天使世界に相当します。そして、今日の世の中は、アダムとエバのような立場にあります。ところで、霊界は、アダム、エバを造る前に造られました。霊界が神様のみ旨に反対することによってサタン世界が生じたので、霊界が神様のみ旨を歓迎してこそ、その世界が復帰されるのです。また、霊界を屈服させなければ、地上世界に主が来られません。それで、統一教会が今まで霊界を屈服させてきたので、霊界は統一教会に協助しなければならないのです。
霊界は、皆様の体の中にもあります。ですから、皆様は常に霊界を背負って歩き、連れて歩いているのです。したがって、逃げることはできません。
霊界はあります。霊界はこの世界のためにあるのです。また、この世界は永遠の世界のためにあります。「世の中のどこに神様がいて、霊界がどこにあるのか」と言うかもしれませんが、神様のいらっしゃる所が霊界です。
私たちの人生が七、八十年で終わるとすれば特に問題はありませんが、永遠の生を中心として生きていくので深刻です。それでは、霊界があると言うとき、死後に霊界に行くとすれば、何をもって行くのでしょうか。真の愛を実践する生活をしなければ、霊界と関係を結べません。霊界は広大な世界です。皆様は知りませんが、広大無辺な世界です。霊界という所は、愛の電気で満ちあふれた世界です。愛の電気をもってすれば、できないことがありません。私たちの意識構造をもって治めることができる圏内が霊界だと言えます。霊界は永遠の要素を願う所です。霊界は、すべてのものが愛で満ちあふれた調和の世界です。ですから、愛のボタンを押せば、宇宙が作動するのです。
地上天国はどのような所でしょうか。すべての愛の電球に、明かりをともせる所です。それでは、天上天国はどのような所でしょうか。愛の電球に、明かりを永遠にともせる所が天上天国です。そのため、皆様が愛の心さえ抱いて、愛の綱さえ引けば、すべて引っ張られてくるのです。後ろに引けば後ろに行き、横に引けば横に行きます。思いどおりに操縦できるのです。嫌でそのようにするのではなく、自動的にそのようになるというのです。ですから、霊界という所は愛の空気で満ちあふれた所です。愛の神様が愛の心で、世界人類に対して一度にすべて食べさせて喜ばせたいと思って、「御飯よ、出てきなさい!」と言えば、出てくるのです。
霊界では、愛の食べ物を食べます。互いを見るのも、愛の目で見るのです。そして、言い表せないほど神秘的な所です。何かを聞いても、ひたすら聞き続けたいと思う、眠気や疲れという観念がない所です。今日、人間は何であってもすべて、愛と関係を結ぼうとします。なぜ、愛と関係を結ぼうとするのでしょうか。霊界に拍子を合わせるためです。そのようになっているので、そこに応じるしかないのが人間という存在です。その位置を離れられないのです。
皆様が夢で先生に会う現象は、神様の愛の波長を通して現れるのです。そのためには、自分があってはいけません。自分を犠牲にしなさいというのです。真空状態をつくらなければなりません。真空状態になったあとには、共鳴圏をつくり、電気抵抗が最も少ない黄金にならなければなりません。黄金というのは、他の要素が混じっていません。純粋そのままです。
Saturday May 07, 2022
平和経 第195話
Saturday May 07, 2022
Saturday May 07, 2022
霊界と肉界の中心は神様の愛
皆様は霊界のことが、相当気にかかるでしょう。世界には、数多くの宗教がありますが、その宗教が行く道は、霊界と関係を結んで永生する世界、永遠に生きる世界、すなわち神様と共に暮らす世界を訪ねていくのです。そのような世界が、宗教の目的地です。しかし今日、宗教はどのように変わったでしょうか。だんだんと堕落して、「宗教は、弱者が信じるものだ。私たち人間に必要ないものだ。それは道義的な一つの表象として、人間が捏造したものだ」と、このように結論を下す時代に入りました。宗教の中心になるキリスト教だけを見ても、そのようになりました。アメリカは全世界のキリスト教国家の代表国ですが、そのようなアメリカの家庭で育った人々が宗教を離れ、今に至るまで自分勝手に暮らしているのです。
世界の中心であり、すべての理想の中心が神様ですが、その神様がいらっしゃる霊界を中心として理想を描いたキリスト教を信じていたのに、なぜ離れるのでしょうか。第一の原因は、霊界があることをはっきりと知らなかったからです。知能をもった比較能力のある人間なので、良い所があれば悪い所を捨てて、そこに行くようになっており、より次元の高い価値のある所があれば、そこに行くようになっています。それが人間の本性です。人間は、霊界の実在をはっきりと知らなければなりません。その次に、第二の原因は、神様を知らなかったからです。堕落によって神様との関係が断絶し、孤児として生きてきました。そして、第三の原因は、霊界の中心となり、神様の中心となる愛によって結ばれることを知らなかったからです。
この三つが分からなかったというのです。たとえ神様を知り、霊界を知ったとしても、愛を中心とした世界であることが分からなかったのです。愛がある所では、上がっても良く、下がっても良く、真ん中にいても良いというのです。愛する夫が自分より高いといって嫌がったり、愛する妻が自分より低いといって、それを僧んだりしますか。一つになれば思いどおりに、低い所から高い所に上がることもでき、高い所から低い所へ下りてくることもでき、中間にいることもでき、どこにでも行けるのです。制裁されることはありません。それで世の中では、「この世界は、一つの世界でなければならない。統一の世界でなければならない。平和の世界でなければならない」ということをよく言うのです。
霊界と肉界、霊的な存在と肉的な存在も同じです。ここは神様の愛、神様が中心になっています。堕落した人間は、神様が中心になっていません。人間は心と体から成り立っていますが、心と霊界は違います。次元が違うというのです。
霊界と肉界とは、神様の愛を中心として語るものです。したがって、霊界と肉界が一つになるためには、必ず神様が介在しなければなりません。神様の愛が介在しなければ、正しく、霊界とは通じないのです。神様を中心として、霊界というものが連結されるのです。「自分の心も霊ではないか」と考えるかもしれませんが、それは混同しています。心は霊界ではありません。堕落したために、心は霊的世界と関係を結んでいないのです。骨のない人のようなものが、堕落した人間の心であると考えれば、実感が湧くでしょう。骨のない人のような形態が、堕落した人間の心だというのです。
霊人体を見れば、霊人体にも体の要素があり、心の要素があります。その霊人体の心のようなものが霊的世界です。それは、必ず神様と関係を結んでいます。ですから、神様と関係を結ばなければ、霊人体の生心は啓発されないのです。霊と心は違うというのです。神様が離れているのです。神様御自身は人の心と関係をもてず、直接主管することはできません。人間の心は、ああなったりこうなったりしながら変わります。しかし、霊的世界や霊的存在は変わりません。それは永遠に一つの目標を立てて、たゆまずに進むのです。なぜでしょうか。神様の側に立っているからです。心は人間に属しています。行ったり来たりする人間にあるというのです。
Saturday May 07, 2022
平和経 第194話
Saturday May 07, 2022
Saturday May 07, 2022
第五章 有形実体世界と無形実体世界
人生路程に対する祈祷文
愛するお父様、天が辱めを受けることがあってはならないと思い、幼い頃から今まで闘ってきた私を守ってくださったお父様の恩賜に、感謝申し上げます。この地において何が良いといっても、お父様が運行される本然の心情に連結されたこと以上に貴い基準がないことを知っております。その立場を限りなく慕わなければなりません。お父様の真の愛に触れた人は、世の中の万事を捨てたとしても未練がない立場にあることを、私たちは知らなければなりません。第三の生の自由権限を手にできる解放児として出生するその日を、今日、この地上世界において準備しなければなりません。
愛するお父様、私たちが新しい春を迎えるためには、私の生命が同化される関係を備え、そこに完全に吸収されなければならないということを知っております。そうしてこそ、初めて春を迎え、花を咲かすことができるという事実を知らなければなりません。「一生において、あるひととき春を迎えたことがあるか」と聞かれ、「迎えたことがある」と答えられない、哀れな霊になってはいけません。
愛するお父様、お父様をお迎えし、慎ましく敬拝を捧げたいという思いのない人は、永遠なあの世でお父様と関係を結べないことが分かるようにしてください。今、私たちが心の門を開き、お父様の心情を感じられるようにしてくださり、今日、私たちの心からあふれ出るお父様のみ声を聞いて、失った自分自身を探し出せるようにしてください。お父様が私一人を探すために、私の背後であらゆる艱難と苦労の歴史過程を経てきたことを感じ、自ら頭を垂れる私たちとなれるよう、許諾してください!
死に対する理解
この地上には父母がいて、師がいて、親戚がいます。この地には、そのような関係を結んでいける道がありますが、霊界にはそのようなものがありません。霊界では、誰もが神様を中心として、全体のために生きるのです。位置がすべて区別されています。ですから、上にいる人が下に来ることもできず、下にいる人が上に行くことも難しいのです。本来は、地上で完成してこそ霊界に行けるようになっています。一度あの世に入れば、終わりです。いずれにせよ、人間は死ぬのです。
生涯の路程は、あまりにも短いのです。一生はあまりにも短いのです。人の寿命が八十年だとすると、あまりにも短いというのです。霊界の時間では、すなわち永遠の世界の時間で考えれば、八時間にもなりません。ですから、真の愛の力は偉大です。真の愛は時間と空間を超越し、私たちが認識できないほど速く作用します。
間違いなく霊界はあります。間違いなく霊界は実在し、私たち人間は神様から生まれたので、いずれ神様がおられる霊界に帰らざるを得ません。韓国語の中でおもしろいのが、「トラガンダ(帰る、亡くなる)」という言葉です。どこに帰るのでしょうか。墓地に行くのは、帰ることではありません。出発した故郷に帰るということです。その出発地は、墓地ではないというのです。果てしなく遠い歴史の起源を越えて、帰るという意味です。
人間が帰る(亡くなる)ということは、韓国人として生まれて、韓国人として帰る(亡くなる)ことを言うのではありません。韓国人として死にましたが、韓国人として帰るその道ではないというのです。私たち人類の先祖の根源の世界に帰るという意味です。それは何を意味するのでしょうか。創造主がいらっしゃるのであれば、その創造主がいらっしゃる所に帰るということです。そこから出発したので、そこに帰るというのです。
宇宙は循環作用をします。山に積もっていた雪が溶ければ、小さな沢を通じて流れていき、多くの支流を通じて大海に流れ込みます。大海に入れば、それが水蒸気になって、再び帰るのです。循環運動をします。同じように、帰るとすれば、どこに帰るのでしょうか。より高くなる所に、より良くなる所に帰ることを願うのです。誰も小さくなることは願いません。しかし、すべての自然界の運動する力というものは、作用すれば小さくなるようになっています。作用すれば、だんだん小さくなるというのです。私たちが何かを転がしてみても、それが永遠に転がるのではありません。早く転がっていた物も、だんだん遅くなり停止するようになるのです。
私たちはこの世に暮らしていますが、この世だけがあるのではなく、霊界があります。ところが、この地上界と霊界は二つの世界ではなく、一つの世界として連結されています。それでは、私たちが行くべき所、私たちが行って暮らすべき所とは、どこでしょうか。もちろん私たちは、肉身生活をしながらこの地にいますが、永遠の世界に向かっているのです。人は誰しも、世の中に生まれて、十代、二十代、三十代、中年、壮年、老年時代を経ていきます。青春時代を過ごして壮年時代に入れば、一つの峠を越えて、その次には老年時代に入るのです。このように、沈む太陽のように一生を終えるのです。しかし、霊界があるという事実を知る人々は、一生というものがわずかな間であり、死んだのちに私たちが迎えるべき世界は永遠であるということを知っています。そのため、一生は永遠の世界のために準備する期間であることを知って、準備する生活をするのです。
「死」という単語を使った目的は、人生の意味を知るためです。それでは、人生の価値は誰がよく知っているのでしょうか。ただ生きようとする人には分かりません。死の境地に入って、生死の岐路で天にすがり、人生の価値を判断して極めようとした人でなければ分からないのです。
人間は、死を歓迎すべきでしょうか、歓迎してはならないでしょうか。歓迎すべきです。死ぬ時に、何のために死ぬのかといえば、「神様の真の愛のために死ぬ」と言わなければなりません。それゆえ、肉身を脱ぐのは、無限な神様の愛の活動圏に私が同参するためであり、神様の愛の世界のためなのです。
死ぬことは、神様の愛の中で再び生まれることですが、人間世界では「ああ、死ぬ!」と大騒ぎします。制限された愛の圏内から、無制限の愛の圏内に突入できる喜びを迎えられる瞬間が、死ぬ瞬間です。ですから、死ぬ瞬間は第二の出生の瞬間です。それでは、神様は皆様の肉身が生まれた日を喜ぶでしょうか、第二の無限世界の愛のために活動する息子、娘として生まれるその瞬間を喜ぶでしょうか。なぜこのような話をするのか分かりますか。皆様が死の恐怖から解放されなければ、神様と関係を結べないからです。
三段階の人生行路
人の一生は、蘇生、長成、完成の三段階を経ていきます。腹中の水の世界、地上の陸地世界、天上の空中世界で暮らすのです。言い換えれば、母親の腹中の水の時代、地上に生まれて生きる百年の地の時代、飛んでいく空中の霊界時代、このように三時代を経るのです。
人は生まれるとき、水の中で生まれます。腹中時代は、水中時代です。胎児が母親の胎中にいるときは、水の中にいます。水の中で暮らすために、水を飲んでは吐き出さなければなりません。それで胎児はホースを母親のおなかに連結して生きるのです。胎児は、どこから栄養分を供給されますか。へそから供給されます。へそが口なのです。ですから、それをぞんざいに扱ってはいけません。「へそよ、お前は昔、苦労した」と言ってたたいてあげなさいというのです。へそをたくさんたたいてあげれば、健康になります。そのように運動しなさいというのです。へその運動をたくさんすれば、健康になります。いくら寒い部屋で寝るとしても、へそさえきちんと覆いかぶせて寝れば、下痢しません。
腹中での皆様の口はへそです。その次の段階の口は何でしょうか。皆様が食べ物を食べる口です。口がついている場所が上がるのです。それでは、へそについているへその緒を、どのようにすべきでしょうか。切ってしまわなければなりません。同じことです。
空気の世界では、霊人体が肉身に宿って胎児のように成長していくのです。そうして肉身が老いれば、それを捨てて霊人体が出ていくのです。ちょうど胎児が生まれて、父母の前に愛の対象となるように、霊人体が霊的父である永遠の神様と相対できる人として、再び愛で呼吸する世界に生まれなければならないのが、原理原則です。
父母と愛し合う地上世界に生まれるのと同じように、霊的な無限の世界の父母であられる神様と愛を分かち合える霊界に、再び生まれなければなりません。腹中から出て、何を発展させるのでしょうか。それは愛です。愛の要素を受けるというのです。だから御飯だけを食べていてはいけません。御飯だけを食べているのでは生きているとは言えません。第二段階の人生を、愛を中心に生きなければなりません。したがって、地上生活では何を満たすべきでしょうか。この期間には、新しい愛の人格を形成しなければなりません。
この地上で、皆様に必要なものは愛です。母と父の愛を受けられなかった子女を、なぜ、孤児と言うのでしょうか。霊界と永遠に連結させる愛を受けられずに生きるからです。それで、独身生活をする人を、「かわいそうだ」と言うのです。
死ぬというのは、第二の呼吸をしていた肉体に連結された器官を壊して、霊界における愛の要素を受け継ぐことです。愛は見えません。父母の愛、夫婦の愛を中心として、一つの内的な構造が育っているというのです。ですから、神様の法則どおりに胎内で正常な赤ん坊として育つのと同じように、地上でも天理に従ってしっかりと育たなければなりません。
昆虫類の中には、三段階の世界を経るものがたくさんいます。昆虫と言えば大概、羽があります。昆虫も水と陸地と空中で暮らすのですが、万物の霊長である私たち人間には羽があるでしょうか。次元の高い羽があるというのです。肉身の死は、第二の出生の恵みの関門です。死ぬということはどういうことでしょうか。地上生活は、空気中において「胎中で泳ぎ回って暮らすこと」と同じです。空気のふろしきの中で暮らしているのです。死ぬというのは特別なことではなく、霊界での第三の人生として出生することなのです。その瞬間が、死ぬ時間です。
Friday May 06, 2022
平和経 第193話
Friday May 06, 2022
Friday May 06, 2022
第四章 人生路程
幼児期と三段階秩序
アダム、エバを、神様はどのように造ったのでしょうか。土でこねて造ったのなら、どのような土で造ったのでしょうか。どこから出発したのでしょうか。どこから始まったのかというのです。アダムとエバを、最初から成長した人間として造ったとは考えられません。赤ん坊から造ったのです。神様は、胎児を宿した母親がおなかの中で育てるのと同じ過程を経て造ったという論理を立てなければ、このすべての三段階の秩序を通じた存在の形成というものを説明する道理がありません。それで、アダムとエバにも幼児期があったというのです。その次に長成期がありました。その次に完成期があったのです。これは天理です。幼児期とは、どのような期間だったのでしょうか。無形の神様が、無形の世界から有形の世界へ行く過程で、赤ん坊という存在を抱いて育てたという論理から始めなければなりません。
私たちの人生の道
私たちが暮らしている社会、国家、世界は、自分の志に符号する環境になっていないので、あらゆる苦衷が生じており、善悪の分岐点が食い違っています。百人なら百人、各々自分なりの一日の生活を営むために環境の中で苦闘しており、志を押して進めているのです。
ですから、朝に計画した一日の活動に対して、誰も自信をもてないということを、私たちは一日の生活の中でよく感じています。その上、その環境の範囲が大きければ大きいほど、自分の一日の生活を勝利として結果づけるためには、それに比例して決意と推進力をもたなければなりません。そのようにしなければ、その日が勝利の日になり得ないのです。そのような一日一日が加わってひと月になるのであり、ひと月ひと月が加わって一年になるのです。
そのひと月も、私たちが計画したとおりに生きられる環境になっていません。私たちがひと月の勝利をもたらすためには、そのひと月の環境に備わった複雑なすべての事情、すべての条件を打破できる推進力と決意がなければなりません。それがなければ、ひと月の計画を勝利で終えることができないのです。一年を押し進めるためには、三百六十五日を克服できる闘志力、あるいは推進力を備えなければなりません。そのようにしなければ、一年を勝利で飾れません。このような一年に十年が加わり、二十年、あるいは三十年が加わった日々を過ごしているのが、私たちの人生の道です。
今日、この地に暮らしている人間は、時間性から抜け出せません。人類歴史を見ても同じです。個人、家庭、氏族、民族、国家、世界も、そのような時間圏内で動いています。人が生きていくのに、必ず達成すべき目的があります。その目的を中心として、十年、二十年、三十年、七十年、一生の間、行くべきなのです。目的が大きければ大きいほど、内的にもっと強く決意しなければなりません。そのようにしなければ、その目的に到達できません。時間という過程を通して、その目的を凌駕する内的な決意を続けない限り、その目的を達成できないというのです。
私たちが訪ねるべき本郷
皆様は、霊界の事実が分からないかもしれませんが、先生は神様の特別な恵沢を受けて、未知の世界についてよく知っています。その世界の根本を掘り返してみると原則は簡単でした。その世界は、神様の天地原則である「ために生きる生活」をした人だけが行く所です。そのような内容で形成された世界が理想天国です。そこが、私たち人間の訪ねるべき本郷です。
私たちは堕落した人生として、本郷から追放された人間なので、本郷の地に向かって帰るべき運命にあります。しかしそこは、人間自体では帰ることができないので、神様は人間が帰れる道を歴史過程に設定せざるを得ません。それで、その民族の文化背景、風習、あるいは伝統に従って、数多くの宗教を立てて収拾してきたのです。そのように収拾するための訓練場として立てたのが宗教です。ですから宗教は、本郷の地に入る資格をもつ人を錬磨する訓練場です。
東西南北、四方の文化背景によって、高い所に前進できる一つの統一された宗教世界へと導いてきています。そのような本郷の地に導かなければならない宗教なので、宗教は「ために生きなさい」ということを教えざるを得ません。ですから、高次的な宗教であるほど、「ために生きなければならない」という原則を強調しなければならないので、「温柔、謙遜であれ」と言い、「多くの人を高め、彼らのために生きよ」とし、「犠牲になり奉仕しなさい」と教えるのです。その理由は、その国の法度に合う訓練をしなければならないからです。
人生の行くべき道とは何でしょうか。神様の愛を占領することが、人生の行くべき道です。神様の愛を占領することが、人生の行くべき最高の終着点です。この道は、男性も行かなければならず、女性も行かなければなりません。すべての人が行くべきなのです。人生の行くべき道は、無限な愛の神様を探すことです。十回でも百回でも、死の峠を経てでも、たとえ死んででも、絶えず神様の愛を探すのが、人生において行くべき最高の道です。欲望の果てはどこまででしょうか。神様の愛を占領することです。神様を占領したといっても、その中にあるもっと貴い愛を占領できなければ、神様は自分の神様ではありません。ですから、神様の愛を占領しなければなりません。
愛さえ占領すれば、神様はいらっしゃらなくても構わないというのです。神様のものが私のものであり、私のものが神様のものになるとき、初めて内外が一つになります。そのような国が、上下の等級のない理想の本国になるのです。そのような場所に横になれば、天下にあるすべての存在で良く見えないものがなく、天下にあるすべての存在で自分のために存在しないものがないと感じられるのです。そのようなものが神様の愛なので、今日、人間が行くべき天上世界、すなわち天国は、愛で満ちあふれた所です。
誤った出生(しゅっしょう)の基準
世の中の人々は、自分自身が高貴な人だと言っていても、いくら博士だと言っていても、自分の出生が誤ったことを知らずにいます。神様の怨讐であるサタンの愛、生命、血統をもって生まれたことを知らないというのです。重要な問題です。堕落によって人間は、サタンの愛から生まれたのです。サタンの愛がその父母にまでつながってきました。母の生命、父の生命にサタンの血が流れており、その血が今日、自分につながってきたのです。そのような結実体が、正に自分です。ですから皆様は、サタンの血統に属しているのです。言わば、皆様の血管を通ってサタンの血が流れているというのです。ですから、自動的にサタンは自分の理想的な実を結ぶのであり、神様はそのような男性と女性を本然の純粋な完成人間として救おうとされるのです。
皆様は、サタンの愛から出発しました。サタンの血統をもって生まれたのです。ですから、出発が誤ったというのです。出発が誤ったので、再び帰らなければなりません。それでは、帰るには帰るのですが、どこに行くベきでしょうか。堕落前に帰らなければなりません。偽りの父母によって始まったので、真の父母によって再び始めなければなりません。ですから、どれほど深刻でしょうか。自分が神様の愛と神様の生命と神様の血統を引き継がなければならないのです。それで、祝福を受けるとき、血統転換式をするのです。それを、自分の生命よりもっと信じなければなりません。
統一教会の一つの礼式だといって、ただ一般の宗教儀式と同じに考えてはいけません。これは、死んだ立場からよみがえらせる注射薬と同じです。解毒注射です。私たちの先祖が誤ったのです。このために、歴史を経てきながら数多くの人々が犠牲になりました。これを知る私たちは、再びその道を行くことはできません。絶対に行けないのです。不倫の愛で堕落したことにより、歴史を通して受けたその代価が、途方もなかったというのです。個人、家庭、社会、国家、世界に及ぼした影響が、途方もなかったのです。
生涯の基準
ここにおける人間の「生涯」とは、永遠の生涯です。それは地上界のことだけを言うのではありません。霊界においても生きている永遠の生涯です。私という存在は、神様の愛の対象として造られました。絶対的で主体的な神様の対象が、正に私です。神様の愛の相対が、私だというのです。神様が御自身よりもっと貴く思うのが、真の愛の概念です。神様は絶対的で、永遠な生命の中心です。神様の理想は永遠なのですが、その理想の中心が、正に真の愛です。その愛の相対が私です。
愛の属性は、主体と対象を一つにすることです。それは、国家をも一つにします。それゆえ愛において、どのような場にも同参でき、どこでもついていけるのです。愛によってすべて相続できます。神様の心情までもすべて相続するのです。先生は悲惨な過程を経てこれを発見することにより、その基盤の上に立つようになりました。これは何ものとも換えることはできず、崇高で、尊厳ある高貴なものです。驚くべき恩賜です。そのため、神様と同じ立場に立つのです。永遠な真の愛の場に同参するのです。
霊界は、制限された地球星とは次元が違います。制限された所では自由に動けませんが、霊界は次元が高い世界なので、何でもできる所です。時間を飛び越えることができます。愛を中心として何でも願いさえすれば、いつでもどこでも、すべて得られるのです。私たちは本来、永生体として造られました。真の愛を中心とした対象体である私は、永遠の生命体だというのです。ですから、霊界に行けば自由です。そのためには、生涯の基準として、第一は善悪の基準が重要です。善悪の基準が第一であり、第二は本然の出発点に返ることであり、第三は永生問題です。
Tuesday May 03, 2022
平和経 第192話
Tuesday May 03, 2022
Tuesday May 03, 2022
愛は極めて自然なところで形成される
先生が幼かった頃、ある日、鳥を一つがい捕まえて、二羽のくちばしを合わせようとしたことがあります。二羽が口づけするのを見るために、垣根を造り、餌もあげながら観察しました。互いに愛し合い、楽しそうに歌うのを見たいという子供心からそのようにしたのです。それは、すべての自然の道理をはっきりと知るための、一つの好奇心に満ちた実験でした。今考えれば、全くもって意地悪な行動をしたものです。愛は自然に形成されることを、随分あとになってから悟ることができました。愛は最高に自由な雰囲気の中で形成されるものであってこそ、真実の愛です。先生が愛について正しく知っているのは、長年の実験を経た結果なのです。
愛の価値を失った人々に対して大学教育を施すといって、何が変わるでしょうか。彼らは、知識を蓄えるだけで、個人主義者や物質主義の信仰者をつくり出すだけなのです。テンジャンチゲ(肉、野菜などをみそとともに煮た煮物)は土焼きの器に入れてこそ、その味が出るのと同じように、人格修養も愛を土台にしてこそ、その目的を達成できるのです。世界文明の花は、美術的調和を整えた基盤の上で咲かせなければなりません。焼いたカルビは皿に盛らなければならないのであり、テンジャンクッ(韓国風みそ汁)は土焼きの器に入れてこそ、本来の味が出るのと同じです。濃厚で香ばしいテンジャンクッの味は、一度覚えればどこに行っても忘れられないのです。同じように、人もそのような愛を一度覚えれば、変わることがありません。単純な味のインスタント食品はやがて嫌気が差すように、愛もインスタント食品のように、どこででも簡単に求めることができれば、それは真の愛とは言えないのです。
最近は、インスタント食品のような愛で愛する人々が至る所に散らばっていますが、それが問題です。香水風呂に入って沐浴したからといって、愛が深まるのではありません。山真の僻村(へきそん)に住みながら、冷水に浸かって体を洗い、寝床に入る夫婦の愛のほうがもっと純粋であり、長く続いて深まるものなのです。
人間が、愛する人と出会えば、抱擁したいと思い、口づけもしたいと思うのは、自然な異性間の本能です。私が環境と接しているのは、この宇宙を好きになるためです。それは相対を探し立てるための、人間の自然な行為です。すべての人間が相対的理念のもとで、男性は女性に対し、女性は男性に対するとき、ここには愛の秩序に違反する行為や事件がないでしょう。真の愛の秩序は、相対的な理念を基盤として男性と女性が出会うときに生まれるのです。
第四章 人生路程
神様の目的
神様には体がありません。それで、すべての万物に神様の体を現すために、アダムを神様の代わりの顔として現したのです。それが創造理想です。神様は本来、霊的な中心であり、アダムは本来、肉的な中心です。その二つが九〇度をつくるのです。それが神様の創造目的です。アダムとエバが堕落しなかったならば、霊界に行って父母として永遠に現れるのですが、堕落したためにそのようになれません。堕落しなかったならば、自分の父母に神様のように侍れば、誰でも天国に行くようになるというのです。
この世界は丸くなっています。太陽も丸く、地も丸く、星も丸く、口も丸くなっています。どのような物も、すべてそのようになっています。そのため、宇宙はくるくる回りながら関係を結ぶのです。そして、丸くなっているとしても、個別にも、全体にも関連性を結びながら、球形を維持するのです。それでは、私はなぜ生まれたのでしょうか。この大宇宙と拍子を合わせるために生まれたのです。したがって、海の波がざぶんざぶんと音を立てれば、私の心もざぶんざぶんと音を立て、風が気持ち良く吹けば、私の心も気持ち良く、花が咲いて香りを漂わせれば、私の心も香りを漂わせることができるのです。
愛の中で生まれ、愛の中で育ち、愛の中で生きて、愛の中で死ぬようになるときは、生まれたことも有り難いことであり、生きることも有り難いことであり、死ぬことも有り難いことなのです。皆様は、母と父がこの上なく愛する場に同参して生まれました。同参者だというのです。父母の愛によって生まれたので、父母の愛の証の旗として生まれたと思いなさいというのです。ですから旗が動くのは、愛を表示するために動くのです。一生の間、愛のために生きるのです。そうして、母のためにも愛の旗を振ってあげ、父を見ても愛の旗を振ってあげ、兄弟たちのためにも愛の旗を振ってあげなさいというのです。
瞬間(一日)と一生の関係
皆様の生活全体が栄養素を吸収できる足場にならなければ、生命体を完成できません。これが、自然の現象世界で展開するのです。生命の分岐点は、長い期間にあるのではなく、一瞬にあるのです。瞬間を無視する人は、貴いものをもつことができません。偉大な人にもなれず、神様の王座と王冠を受け継ぐこともできません。
ですから、瞬間を輝かせるために、皆様は言葉一つにも、行動一つにも注意すべきであり、考えることにも注意すべきです。自分の生活で起こるすべての内容が、世界と関係する現象として残るという信念をもって解決するところにおいてのみ、勝利圏が決定されるのです。勝利圏が決定されるのは瞬間です。したがって、歴史的な勝利圏、天宙的な勝利圏も瞬間に決定されます。瞬間を輝かせることのできる無限の価値を感じながら生活する人は、偉大な人になれるのです。聖人にもなることができ、神様の息子、娘にもなれるのです。生死の分岐点は瞬間にかかっています。
今日、私たちの姿勢が問題です。まず、み旨の国が来ることを願い、み旨が成就されることを願うことも必要かもしれませんが、それより、自分がどのようにすればみ旨と一致していくかということが重要です。一時間なら一時間、どのようにすればみ旨と一つになれるかということが、み旨の国が成就されることを願うより重要なのです。ですから、まずみ旨を継承できる個人的な環境、家庭的な環境、氏族的な環境、民族的な環境を築いてこそ、み旨の国と関係を結べるので、神様を中心として、一日の生活圏内で、一時間なら一時間、どのようにみ旨と関係を結ぶかということが、重要な問題とならざるを得ません。
復帰摂理歴史を見れば、アダム家庭からノア家庭、アブラハム家庭、モーセとイエス様の家庭まで、四千年の歴史が流れてきていますが、彼らが失敗するようになった動機は、ある一年を中心としたものではありません。アダム家庭において、アダムとエバが堕落したのも、一年や十年、あるいは何十年を計画して失敗したのではありません。その失敗は、一瞬にしてもたらされたのです。その一瞬の失敗が、億千万年続いてきたことを考えるとき、その瞬間、瞬間がどれほど恐ろしく、どれほど怖いものかを知ることができます。
一瞬の失敗によって、歴史時代において修行の道を歩んだ数多くの人々が受難の報いを受けなければならず、そのみ旨に従っていかなかった数多くの民族が、滅亡のどん底に落ちなければなりませんでした。それが、途方もない蕩減の祭物の起源になったのです。ですから、ヵチッ、力チッという一瞬が恐ろしいのです。永遠の天国も、一瞬を離れてはあり得ません。
永遠の出発は、自分が死んで始まるのではありません。永遠の出発は、自分がみ旨を知った瞬間から続くのです。ここにおいて、一瞬でも時間の飛躍があって深い穴が生じれば、永遠は中断されるのです。ですから、私たちが生涯路程を中心として信仰の道を行くときに、今年行けなければ来年行き、来年行けなければ再来年行き、十代に行けなければ二十代に行き、二十代に行けなければ三十代に行き、三十代に行けなければ四十代に行き、四十代に行けなければ五十代に行く、このようにしてはいけません。一生をこのように生きていけば、一生の間、み旨と一つになる一日の生活も送ることができずに死ぬでしょう。もしそのように生きたならば、その人は天国に行けません。いくら自分が暮らしているその国が良いといっても、一日の勝利基準をもてなければ天の国に行け一年の勝利基準をもてなければ永遠の世界に入れないのです。
そのため、信仰者は永遠を夢見て進むことも重要ですが、それより重要なことは、現実においてどのように悪を清算し、善の旗手になるかということです。このような問題が何よりも重要です。
このような点から見るとき、アダムの瞬間的な失敗が、億千万年の恨を残したのです。アダム家庭において、カインとアベルが父母の恨を解き、兄弟の壁を崩して、一つの家庭の起源をつくらなければなりませんでした。このように復帰摂理の代表として立てられたアベルが死んだのも、瞬間的な事件でした。百二十年かけて箱舟を造ったノアの苦労の路程において、神様が「願いを成就する日が来たので、船に乗りなさい!」と言われた命令も、一瞬の間に下されました。この命令に同調した人は、永遠な神様の祝福を受けられましたが、そのようにできなかった人は、永遠の審判圏内で水葬されたのです。
アブラハムも同じです。神様が、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい。あなたの子孫はあのようになるでしょう」(創世記一五•五)と祝福されましたが、その祝福の命令もカチッという一瞬に下されたというのです。アブラハムが象徴献祭を行った時間も、何十年間、象徴献祭を行ったのではなく、たった一日の時間圏内でした。供え物を裂いて象徴献祭を行う時間はわずかでしたが、ここにおいて歴史的なすべての生死禍福の起源が組まれてきたのです。今日、信仰者が恐れるべきことは、終わりの日に訪ねてくる審判ではなく,一日一日の生活圏内で訪ねてくる時間をどのようにみ旨と一致させるか、どのようにみ旨と共に交差路を形成していくかという問題です。
Tuesday May 03, 2022
平和経 第191話
Tuesday May 03, 2022
Tuesday May 03, 2022
愛は相対から来る
愛は一人では成立しません。愛は私から出てくるのではなく、相対を通して出てきます。相対から出てくるので、私が頭を低くして相対のために尽くさなければならないのです。「ために生きなさい」という天理が、ここから生まれるのです。極めて高貴なものが私に訪ねてくるのですが、それを受けようとすれば、相対を高めて、ために尽くさなければならないという、「ために生きる哲学」を実践しなければなりません。
人には愛があります。しかし愛とは、自分一人では現れません。男性が一人でいるときは、愛が現れません。男性の前に相対となる女性が現れてこそ、愛が生じるのです。
父母の愛が良く、夫婦の愛が良いと言うとき、本当の愛は、自分を中心とした愛ではありません。愛というのは、私から始まるのではなく、相対から始まるのです。夫から、妻から愛が生じるのであり、息子から、兄弟から愛が始まるのです。愛は自分自身から始まるのではなく、相対から始まるというのです。ですから、愛の主人は誰でしょうか。相対が愛の主人です。
愛は相対から現れます。相対が醜くて好ましくなければ愛の作用は遅くなり、相対が美しく好ましければ愛の作用もその分、早まります。相対の言葉、美しさ、香り、味など、相対の要素によって愛の作用が決定するのです。
愛の根拠地はどこでしょうか。愛の根拠地は、「私」ではありません。愛という言葉は、相対的観念から語るものです。相対がいなければ、いくら美男子であっても、一人では愛することができません。愛の根拠地は、私ではありません。「愛は私からだ!」と言うのは、サタンが今まで利用してきた言葉です。愛の根拠地は私ではありません。愛の根拠地は自分であると考えるのですが、このような考え方を改めなければ、未来の歴史も発展がありません。今まで、妻は妻なりに自分が中心であり、夫は夫なりに自分が中心だと言って、互いが「私のために尽くしなさい」と言ったので、破綻に至るのです。愛の根拠地は私にあるのではなく相対にあるので、その愛を私が手にするためには、私自身がその愛の前に犠牲にならなければなりません。
愛は必ず犠牲を求めます。また、愛は克服を必要とします。このような観点から、サタン世界を克服できる内容は、この天地間において、他の所からは見いだせません。神様を中心とした愛の原則に従うことによってのみ見いだせるので、神様は愛をしっかりつかんでいるのです。「慈悲」という言葉も、愛がなければ出てこないのです。「仁」という言葉も、一人では出てきません。「慈悲」や「仁」という言葉も、すべて相対的観念から語るものなのです。
異性間で愛の調和を形成すれば
男性は天を象徴し、女性は地を象徴します。したがって、二人が合わさって調和しなければなりません。男性と女性は、互いに異なっています。男性の体つきはごつごつしていて、女性はしなやかです。男性は髭が生えますが、女性は髭が生えません。声も違います。男性と女性を比べれば、相対的に釣り合っています。調和が取れるのです。人は肉的構造を見れば、左右に相対的です。半分と半分をぴったりとくっつけたからです。
皆さんは、高いだけ、あるいは低いだけのものが良いですか。調和しているのが良いのです。水平線を中心に、下には魚類が棲み、上には哺乳類、鳥類などが棲んでいます。女性は、ひと月に一度ずつ、生理が起きます。月を中心として潮の流れが変わるように、女性もそのようになっているのです。呼吸作用と同じです。男性と女性が調和してバランスを取らなければなりません。なぜ人々は、昇ったり降りたり、回ったりする様々な施設があるディズニーランドを好むのでしょうか。宇宙がそうなっているからです。男性だけで和動するのと、男性と女性が和動するのでは、どちらのほうが気分が良いでしょうか。男性と女性が和動するほうが良いのです。宇宙がそうなっているからです。宇宙が陰陽の調和を形成して和動するので、拍子を合わせなければならないのです。
異性間で愛の調和を形成すれば、一つの円形運動をするようになります。異性が愛で一体となって愛の実を結ベば、神様は降りてきて、人間は上がっていくようになり、中央で出会うのです。神様がこの円形の求心点となって球形運動が行われるのです。求心点からは四方のどこにでも通じることができます。その求心点は、愛の調和が形成される所であり、生命が胎動する場であり、共生共栄主義の始発点です。そこには愛の力があるからです。ですから、宇宙のすべての作用と包容の力は、愛なのです。
人間にとって、愛は永遠なものであり、二つではなく一つです。男性と女性が愛で結ばれれば、地上において偕老同穴を果たさなければならず、死んでも永遠に共に生きていくようになっています。体は二つですが、一つになって回ることにより、一体になるのです。二つの体が一つになれば、神様のように回って愛の四位基台を造成するのですが、それが正に、愛の理想世界です。そこには偽りの愛が侵犯できず、ただ真の愛のみが臨在するようになります。神様を中心として、男性と女性が祝福を受けて完成した位置に立てば、神様はいつでも訪ねてこられるようになります。愛の四位基台を造成すれば、相手側の体を通して心まで愛するようになり、心を愛するようになれば、体まで従ってくるようになっているのです。
真の愛に酔った本然の人間
この世で最も神聖なものとは何でしょうか。真の愛です。真の愛は、神様から出発します。神様が存在されるならば、それ以外の道はありません。神様が心から願うのは真の愛の道であり、真の愛の道を通らなければ、神様のみ前に出ていけないということを知らなければなりません。神様は、愛を通して、見て、聞いて、食べて、触れてみたいというのです。人間も、神様から愛の口づけを受けたならば、内部が爆発するような喜悦を感じるでしょう。神様の願いはここにあるのであって、ダイヤモンドや宝石を所有したといって、うれしいとおっしゃるのではありません。
人間の体を見れば、人体は五官をもっています。人間は誰でも五官の認識によって真の愛を感じ、確認するようになっています。目が真の愛に向かっていれば、その目は真の愛に酔うようになっています。酔った瞳の色は、どれほど美しく輝くでしょうか。真の愛に酔っている人のほほえむ唇は、どれほど魅力的なのか、考えてみてください。人間の五官が真の愛に酔って動く姿、神様に向かって動く五官の調和が、どれほど美しいかを想像してみてください。そのような美しさを通した喜びを、神様お一人では体験できないのです。そのような美しさは、実体的な相対がいてこそ体験できるのです。これが、神様が人間を創造された目的でもあります。
真の愛に酔った瞳を見つめみたい、唇に口づけをしたい、心の旋律を一度奏でてみたいという、美しい男性と女性がいるとすれば、神様はどのようにされるでしょうか。真の愛の女性がいれば、その女性の心情世界を旅行したいという思いをもつはずです。美しい女性の心情世界、心情圏がどれほど広く深いかを確認したいという衝動が起こるはずです。神様は、御自身が天地を創造された以上に美しい内容を所有したアダムとエバの心情世界を旅行したいと思われたでしょう。
神様は真の愛の人間に対して、宇宙を旅行すること以上に、その心情世界を旅行したいという思いをもたれるのは確実であり、アダムとエバの真の愛の心情世界を永遠に離れたくないという思いをもたれるでしょう。神様が人間を造られたのち、人間の真の愛に溺れて愛の迷子になったならば、世の中はどのようになっていたでしょうか。人間の中に神様がお住まいになるので、神様と人間が一つになって造り出した世界は、喜びと美しさが満ちあふれた世界であるということが、はっきりしているのです。
真の愛が完成したならば、感応される神様は、その真の愛に頭まで浸(つ)かっても後悔なさらないでしょう。真の愛の中であれば、どのようなことが起こっても、ひたすら喜ばれる方が神様です。真の愛の世界で人類が暮らすとすれば、一生、後悔のない幸福な生涯になるでしょう。また世の中に戦争の歴史もないはずであり、不満や不幸のない世界になるでしょう。
Monday May 02, 2022
平和経 第190話
Monday May 02, 2022
Monday May 02, 2022
第三章 創造本然の男女の愛
創造本然の男女の愛
男性と女性が愛し合っても、それが、神様の立てようとしたみ旨と一致するか、また神様が人間に願ったその基準に一致するかが問題になります。男性と女性が愛し合うとき、神様がお考えになるモデル的な愛と一致するかということです。神様を中心として、最初の男性と女性が愛によって一つになっていたならば、それは、愛を中心とした宇宙のモデルになったでしょう。神様も人間に、そのような愛を願われたのです。男性と女性も同じように、互いに相手に対してそのような愛を願ったでしょう。そのような真の愛は、宇宙の核にならざるを得ません。一つの標準型になるのです。
神様の愛と人間の愛は、本質的に同じです。愛は一つになろうとする力です。男性と女性が互いに恋しく思う理由は何でしょうか。男性は女性を、女性は男性を通してのみ、神様を所有できるからです。なぜなら、男性と女性が愛によって一つになった場に、神様が臨在されるからです。
二性性相の母体が神様であることを考えるとき、男性と女性の尊厳ある価値を賛美すると同時に、神様の貴い価値をさらに賛美できる人にならなければなりません。
男性の心の中には、神様が愛される女性がいて、彼の対象である女性の心の中にも、神様が愛される男性がいて、共にたたえるようになる場合には、神様もそれを見て喜ばれ、あらゆる万物も互いに喜ぶようになるでしょう。彼らが互いに抱擁する喜びの内容が、天と地が共に喜ぶ価値となるのです。男性と女性が互いに喜んで抱擁するそれ自体が、宇宙が一体になる場となります。神様の理想の中で形成される創造本然の姿は、そのようなものです。
本来、男性は自分が喜べる女性を迎え、女性もやはり、自分が喜べる男性を迎えなければなりません。それだけでなく、その限界を超えて、神様も喜び、すべての万物が喜ぶ出会いでなければなりません。そのようになれば、この世のすべての存在物がその夫婦のために動員され、彼らに主管を受けることを願うようになります。鳥は彼らのために歌を歌い、蝶は喜びながらひらひら舞うようになるのです。神様も喜ばれ、人も喜び、あらゆる万物も喜ぶのです。このような立場に立って、人間の先祖が歴史を出発させていたならば、それこそ創造本然の理想世界になっていたでしょう。
男性と女性が生まれた理由
本来、男性が生まれた本当の意味はどこにあるのでしょうか。女性のために生まれたことを否定できません。その反対に、女性は女性のために生まれたのではありません。男性のために生まれたという事実を自らが確信できなければ、問題が生じるのです。これを、天地創造の大主宰であられる神様が創造の原則としたので、その原則に従っていかなければ、善で、真で、幸福で、平和な世界、あるいは愛と理想の世界に入っていけないというのです。
女性は男性に出会うために生まれ、男性は女性に出会うために生まれました。これが最高の真理です。この原則に従って祝福圏を訪ねていかなければなりません。最高の真理圏を離脱することは、最高の悪になるのです。
男性と女性は、生理的に反対です。一般的に女性は一方的なのに比べて、男性は三方、四方的です。また、女性は主に家の中にとどまっていますが、男性はあちこち、世の中を歩き回るのです。このように性格が反対です。それでは、このような主体的な男性と相対的な女性が、何を中心として一つになるのでしょうか。愛を中心として一つになるのです。人間と神様を一つにさせるのも愛です。男性の骨格が女性よりも大きいのは、自分だけが稼いで生活するためではなく、子女と妻を養うためです。男性がもっている器官と女性がもっている器官は、互いに異なります。それを誰のためにもっているのでしょうか。それは、自分のために生じたのではありません。男性のものは女性のために生じたので、女性のものです。女性のものは、もちろん男性のものです。
男性と女性の愛の象徴は何でしょうか。愛の終着地点はどこですか。男性と女性が一つの体になるようにする性の器官です。それは、愛を中心として心と体が完全に合わさることのできる通路となるのです。男性がもっているものは男性のものではなく、女性がもっているものは女性のものではありません。男性は女性のものをもっており、女性は男性のものをもっているのです。生まれたのは、自分のために生まれたのではありません。相対のために生まれたということを、はっきりと知らなければなりません。
なぜ、男性と女性が地球上に生まれたのでしょうか。互いに愛し合うために生まれたのです。神様は知恵の大王であられるために、愛の器官を互いに取り替えてあげたのです。男性のものだといっても、その主人は男性ではありません。女性の場合も同じです。主人を差しおいて自分勝手に行動した人は、愛に違反したことに対する審判を受けなければなりません。法の中でも最も恐ろしい法の罰を受けることを知れば、夫は自分の妻をさておいて、他の女性のことを考えたりすることはなく、反対に妻は、夫を放っておいて他の男性のことを考えたりしないのです。
男性と女性は互いに絶対的に必要な存在
愛は絶対に必要なものです。その愛に絶対に必要な要素は人間です。男性と女性です。女性には男性が必要であり、男性には女性が必要です。どれほど必要でしょうか。国よりも、世界よりも、さらには神様よりも、もっと必要なのです。女性がいなければ、百年もたたずに人類は滅亡します。ですから、男性がいくら天下を統一したと威張っても、女性がいなければ百年以内にいなくなるのです。ですから、女性が絶対に必要です。
「人」と言えば、男性と女性のことを意味します。一人の男性について見れば、女性がいなければならず、女性について見ても、男性がいなければなりません。その男性は、自らが願って生まれたのではありませんが、その男性に必要なその女性も、自分が願って生まれたのではありません。生まれてみたら、男性であり、女性だったのです。
自分は知らずに生まれましたが、自分を生んでくれた方は知っていたというのです。自分が女性として生まれたのは、自分を必要とする男性がいるからです。同じように、自分が男性としてこのように生まれたのは、自分を必要とする女性かいるからです。すべて知って、そのように生まれたというのです。
男性にとって絶対に必要な存在は女性です。神様を絶対に必要とする前に、女性という相対的な存在がいなければなりません。人類歴史が不幸だったのは、男性が、絶対に必要な存在として女性を正しく認識できなかったからです。同じように女性も、絶対的に必要な存在は男性であることを知らなかったのです。真の愛の味を感じるためには理想圏をもたなければならないのですが、男性には女性が必要であり、女性には男性が絶対に必要です。真の愛のための絶対的男性と女性は、一心に努力することによって結ばれ、絶対的男性と女性が一つに結ばれたとき、神様が二人の真ん中に臨在するようになるのです。真の愛によって結ばれた夫婦が別れるのは神様も嫌うので、絶対的男性と女性の愛は永遠になるのです。
神様は、全知全能の方ですが、その絶対的な存在も、お一人では何の意味もありません。それと同じように、ある男性が美男子で、健康な人だとしても、女性がいなければその意味がないのです。自分の容姿や健康に酔って一人で生きる男性や女性は、どこにも使い道のない存在にすぎません。そのように自己陶酔に陥って生きる男性や女性が世の中に多いことが問題であり、歴史が悲劇として流れてきた原因でもあったのです。自己陶酔に陥って回っている世の中を改善し、変化させてきたのが、神様の摂理だったことを知らなければなりません。
Saturday Apr 30, 2022
平和経 第189話
Saturday Apr 30, 2022
Saturday Apr 30, 2022
地上生活は霊界に拍子を合わせるための訓練
私は霊界の体験をたくさんもっている人ですが、霊界は愛の成分で覆われている所です。地球は空気で覆われていますが、霊界は愛によって包まれている所です。人間は、地上で空気を吸ってガスを吐き出しますが、霊界では愛を吸いながら暮らすようになっています。霊界は、今日の人間の世俗的な愛を中心として愛し合うようにはなっていません。霊界で愛し合う愛は、真の愛です。
霊界に行ってみれば、その世界は次のようになっています。父母、夫婦、兄弟姉妹、子女に対する愛を十分にもった人、すなわち家庭生活で深い愛の経験をした人は、多くの自由を享受できるのです。その人は、何の制限もなく、どこにでも、どの方向にでも行けるのです。その反対に、愛の経験のない人は心が狭く、霊界でも自分一人で孤立していて、自由が全くありません。父子間の愛は縦的な関係であり、夫婦間の愛は横的な関係であり、兄弟姉妹間の愛は旋回して取り囲む関係です。この三つの関係は、互いに異なります。
ですから、地上でこの三つの互いに異なる方法で、深い愛の経験をもってこそ、制限なく縦的に、横的に、円形に旋回できるのです。例えば、父母が早く亡くなることによって、父母の愛を味わえなかった人は、とても重要な愛の経験ができなかったために、かわいそうな人であり、同じように家庭生活、すなわち夫婦関係を経験できなかった人は、生の重要な部分が不足しているので、霊界では非常にみすぼらしい人になります。また、兄弟姉妹の心情を体恤できなかった人は、すべての分野の欠乏によって、完全な愛の人生を生きられなかったので、霊界で哀れな立場に置かれるのです。
皆様はなぜ結婚しなければならないのでしょうか。父母の愛、夫婦の愛、そして子女の愛を体験するために結婚するのです。それでは、それがなぜ必要なのでしょうか。霊界に拍子を合わせる訓練をするために、家庭をもたなければならないということを知らなければなりません。愛の空気が満ちあふれた所が霊界ですが、これを感じられずに行く人は、向こうの国に行って拍子を合わせられないのです。このような愛の空気のにおいを嗅ぐ鼻がない人と同じだというのです。
皆様は、父親と母親から生まれました。その次に、さらに根本的なことは、父親と母親のおなかを借りて、神様から生まれたという事実です。皆様は宇宙の父母を通して、肉身の父母を通して、真の父母を訪ねていくのです。ですから死の瞬間は、真の父母に会いにいく歓喜の時間です。そこには、真の父母の真の愛があります。そこを天上天国と言います。そこの構成要素は愛であり、そこは父母の愛で満ちあふれているのです。
その愛は、私のためのものではなく、奉仕と犠牲の原則のもと、一方的な法度に通じる愛です。そこに合格するためには、宇宙を愛し、人類を愛さなければなりません。地上生活は、そのような愛のための訓練場です。
この地上での生活が、どれほど重要か御存じですか。一度しかありません。瞬間ですが、一度しかないのです。地上生活を永生に比喩すれば、これは一つの点にすぎません。あまりにも短い瞬間です。しかし、この瞬間のときに、肉身生活を越え、霊界のために準備しなければならないのです。
Saturday Apr 30, 2022
平和経 第188話
Saturday Apr 30, 2022
Saturday Apr 30, 2022
愛のセンターを訪ねていく人生行路
人間は、愛によって生まれ、父母の愛の中で成長し、横的に愛を広げていきながら成熟するようになります。横的な愛は、異性の相対に出会って一つの段階を完成するのですが、天地の愛を代表できる基準に入れば、その結実として子女をもつのです。子女は、核心的な心情の位置で生じた愛の結果として生まれます。男性と女性が心情的な愛を与え合うことで生まれた息子、娘は、愛の核心に通じる道をつくってくれるのですが、そのセンターを通っていけば、正に神様と出会うのです。
人間は、愛の結実として子女をもつことによって、神様が万物を創造し、人間を創造された愛を体恤するようになります。また、父母の愛によって生まれて受けた愛を、子女を愛してみることによって、父母の心情を体恤するのです。父母が子女に注いできた愛は、物質的な愛ではなく、本質的な愛です。天地が変わっても、歴史が変わっても変わらないのが、父母が子女に与える愛です。父母になって子女を愛することにより、神様が人間をどのように愛してこられたのかを推し量るようになり、体験を通して確認するのです。父母になり、子女を愛することによって、父母が私をどのように愛し、どれほど愛したのかを感じ、悟るようになります。そうして、老いた父母をさらに敬い、愛によって孝行の道理を果たすようになるのです。そうできなければ、父母の資格がないだけでなく、子女に対する愛も、偽善であると言わざるを得ないのです。
人間は、父母になって子女を愛してみることによって、神様が人間をどれほど愛してこられたのかを感じ、悟らなければなりません。また、神様をより一層、心から愛さなければなりません。子女よりも、老いた父母をもっと愛するべきであり、老いた父母よりも、神様をもっと愛さなければならないのが愛の秩序であり、法度であることを知らなければなりません。
人間は生まれるとき、愛によって生まれ、生まれてからは愛を受けながら、幼い時期を成長するようになります。しかし、ある程度まで成長すると父母の愛だけでは足りなくなり、兄弟間の愛と氏族の愛を中心として、横的な愛を広げ始めるのです。すなわち、天宙間のすべての愛を受けながら成熟していきます。特に思春期に入ると異性間の愛を切に求めるようになりますが、異性間の愛によって、総合的な愛の圏に入るようになり、初めて愛のセンターを訪ねていけるようになるのです。
天地は球形の世界なので、横的な愛を分かち合い、回転しながら円形を一次的に形成するようになります。特に、異性を相対者として選んで愛を与え合うとき、その結実として子女が生まれて父母になるのですが、このとき、互いが相互間において愛を与え合って回転すれば、横的な愛に続いて縦的な愛も完成するようになり、球形世界を形成すると同時に愛のセンターを探し出すようになるのです。愛の運動を通して生じた愛のセンターは、すべての被造世界の存在の核でもあります。地球が存在するのも、この愛のセンターを中心に運動を続けているからです。愛のセンターは、運動を継続できる無限な力が集まった所です。このような愛の球形を通じて生じるセンターは、正にその場に神様がいらっしゃる所でもあります。ですから、世の中に存在するすべての被造物は、神様の愛によって創造され、存在し、神様の愛のセンターを訪ねていくのです。神様は、正に愛の溶鉱炉です。
三時代を生きる人生路程
人間は、母親のおなかの中で過ごしてから生まれ、一定期間を地上で生きてから死を迎えるようになっています。人間は、世の中に生まれる前に母親のおなかの中で十ヵ月を過ごします。おなかの中にいるとき、幼い胎児の自由には限界があります。胎児は、母親の栄養をへその緒を通して受け取って成長しながら、両手を伸ばしたり引っ込めたり、口を開けたりすぼめたりし、両足でばたばたするのが精いっぱいです。しかし、その胎児にとっては母親のおなかの中が自由天地であり、生の全領域なのです。その胎児は十ヵ月目に世の中に生まれて育っていきますが、それ以後の世界が、今日、私たちの暮らしている現在の地上世界であり、人間社会なのです。
人は愛のために生まれました。ですから、真の父母の愛に根を下ろし、母親と父親の保護と愛の懐である腹中で育ってから生まれ、二十歳までは分別もなく、寝床が湿っていても乾いていても父母から責められることもなく、汚い物でもそれを忘れて、すべて喜んで消化できる愛の中で育ち、そして愛の相対者に出会い、互いのために生きる天理の愛に接ぎ木しなければなりません。そのような一生の過程を通過しながら、神様の愛がどのようなものかを体験してこそ、神様の対象愛の実体圏が完成するので、息子、娘を生んで、愛するようにさせるのです。
この世に生まれた人間は、胎児のときの母親のおなかの中にたとえられる宇宙で生きています。一言で言えば、宇宙という母親の懐の中で、人間の百年の生涯を生きているのです。胎児が、母親のおなかの外の人間の世界を知らなかったように、今日、地上世界で生きている人間は、死後の無形実体世界に対する実在が分からずにいます。ただ、母親のおなかの中の胎児が地上世界の存在について分からなかったのと同じように、自分たちが分からないだけで死後の世界もあるかもしれないという、漠然とした心証をもつだけです。しかしはっきりとしていることは、人間の死後の世界に関する心証的な証言に関わりなく、霊界は確実に存在しているということです。しかし死後の世界は、人間が感知できる五官作用の外にあるので、宗教を通した信仰をもって、不信を克服しなければなりません。
人間の人生には三時代があります。動物界にも水中時代があり、陸地時代があり、空中時代があります。すべてのものがこの三時代を経なければなりません。人も同じです。万物の霊長として、すべての万物を主管できる資格を備えるためには、人にも水中時代があって、どのような存在よりも完全な生活体を備えなければなりません。次に陸地時代があって、どのような動物よりも最高の資格をもった存在でなければなりません。その次には空中時代がなければなりません。ところが人には、翼がないのです。
翼がないのにどのようにして飛べますか。飛び回るどのような鳥よりも、どのような昆虫よりも、高く飛び、遠くにも飛べなければならないというのです。そのためには、どのようにしなければならないのでしょうか。それは、実体である肉身をもってしてはできません。いくら飛び跳ねてみても、飛ぶことはできません。しかし、人は万物の霊長であり、神様が霊的な存在なので、主管権をもとうとしたり、相対的立場に立とうとしたりすれば、その活動舞台が神様と同じでなければなりません。電気や光で言えば、光の速度は一秒間に三十万キロメートル進みます。しかし、それよりもっと速く移動できるのが人の霊人体です。
私たちはこの世に住んでいますが、この世だけがあるのではなく、霊界があります。それでは、私たちが行くべき所、私たちが行って暮らすべき所はどこでしょうか。霊界です。霊界は、愛の空気が満ちあふれた永遠の世界です。ですから私たちの一生は、永遠の世界に入るために準備する期間なのです。
Friday Apr 29, 2022
平和経 第187話
Friday Apr 29, 2022
Friday Apr 29, 2022
神様の愛はどのようなものか
皆様が神様の愛を一度調べてみてください。神様の愛をどのように表現できるでしょうか。それはまるで、暖かい春の日に、空には白い雲がふわふわと浮かんでいて、地にはかげろうがぼんやりと立ちのぼり、虫が飛び回って、ありも世の中を見物しようとちょろちょろと巣を出たり入ったりし、さらさらと流れる小川のほとりには猫柳の花が芽吹き、蛙は春の日の新しい歌を歌い、群れをなして飛んでくる蜂や蝶を見て喜ぶ、そのような環境と同じです。そのような環境に酔って、まどろみそうで、気分が良くていつまでもこうしていたいと言える、そのような味だというのです。
神様が探し求められる理想相対を中心として感じる気分は、このように蝶が飛び、蜜蜂が飛んでくる花の園のようなものです。これを考えただけでも気分が良いですか、悪いですか。この鈍い男性たちは、それが分からないでしょう。気分が良いというのです。懐かしい人に会えば、手を強く握って握手します。懐かしければ、手を強く握るのです。そのように喜んでつかめば、手がほどけないというのです。女性たちは、お嫁に行って夫が自分を愛してくれれば、気分がどうか一度考えてみてください。良いでしょうか、悪いでしょうか。人は率直でなければなりません。愛してくれるなら、この世の中に羨ましいことなどないのです。ずっと夫の横にぴったりとくっついて暮らすのです。
愛は永遠です。愛は二つではなく一つです。一つになるというのです。男性と女性がカップルになって愛し合えば、ぴったりくっついてしまいます。そのようにして理想の心情まで行くというのです。それが正に、神様の愛です。そのような愛をもって暮らせば、一つになるようになっています。
男性と女性が愛し合うようになれば、ありとあらゆることがすべて起こります。神様を訪ねていける道を知り、神様の愛を本当に味わえば、どうなるでしょうか。神様の愛は、世の中のどのようなものとも比較できません。そのような愛を味わった人がいれば、どのような苦難もその人を占領できず、どのような悲しみもその人を占領できないでしょう。そのような絶対的な解放圏があるはずです。これを探し出すことが問題です。
神様の愛は、大きく三大愛として現れます。それは父母の愛、夫婦の愛、子女の愛です。この三大愛が一つに一致する中心が、神様の愛です。
愛と喜びの相続のための神様の祝福
神様にとって、一番の栄光の新しい朝は、肉身をまとえるときです。そして、愛することのできる人(夫婦)をもつときであり、その次には、孫を愛せるときです。息子、娘より、孫を愛せるときがさらに栄光のときです。ところで、神様がアダムを造ってどれほどうれしかったかということを、どのように教えてあげたのでしょうか。「いやあ!私はこんなにうれしかった」ということを教えてあげなければなりませんでした。それは、息子、娘を生むことによって教えてあげられるのです。人は幼いとき、父母の愛がどのようなものか分かりませんが、のちに家庭を築いて赤ん坊ができれば、父母の愛がどのようなものかを知るようになるのです。「私の父母が、私を育てるとき、このように愛してくれたのだな」ということが分かるようになっています。ですから、子女が配偶者を得る日は栄光の日であり、その息子が子女を目にする日が栄光の日なのです。
神様の愛を知らなければなりません。父母の愛を知り、父母に侍ることができなければならず、夫の愛を知り、夫に侍ることができなければなりません。子女の愛を知り、子女に侍ることができなければなりません。子女に命令するだけではなく、侍ってみることもできなければならないのです。理解することもできなければなりません。それでこそ、神様の愛を理解できるのです。子女がいなければ、未完成状態です。神様の愛が分かりません。神様が子女としての人間を、どれほど愛したか分かりません。また、夫になってみなければ妻が分からず、妻になってみなければ夫が分かりません。子女も父母になるまでは、父母の愛がどのようなものかが分からないのです。ですから、息子、娘がいなければ、真の父母になれないのです。
父母が子女の結婚を願うのは、子女に父母の愛をすべて相続させ、伝授してあげたいからです。父母は死んでいきながら、子孫にその実体を残しておきます。ですから、子孫が必要なのです。愛は永遠に続くのです。愛は人間の最高の願望なので、万民が両手を挙げて相続しようとします。その愛を残しておくことにより、霊界でも堂々と神様のみ前に出ていけるのです。そのような愛を完遂できる所が家庭です。家庭を通して天国に行くというのは、すなわち、愛の一体圏が形成されるということです。
人間は、原理原則に従っていかなければなりません。春になれば種を蒔き、夏になれば生い茂り、秋になれば実を結び、冬になればすべてのものを整理して、新しい生命の根源を自分の内心に備えなければなりません。そのようにしてこそ、再び春を迎えるようになるとき、またこれが植えることのできる種になるのです。これは何の話かと言えば、これから皆様は父母となり、皆様のような息子、娘を生まなければならないということです。
皆様の息子、娘を、皆様のように育てなければならないというのです。
皆様は、息子、娘がいなければなぜ寂しいのでしょうか。それは、循環の回路が途切れるからです。鳥が雛に餌をあげるのを見れば、母鳥のこの上ない愛を知ることができます。東洋では、大人に対しては礼儀正しく敬い、息子、娘にはこの上ない愛を惜しみません。息子、娘を生んで育ててみることによって、父母が子女をどれほど愛したのかを悟るようになるのです。人間は誰でも、結婚したのちに子女を生んで育ててみなければなりません。そのようにしてこそ、子女の愛と父母の愛を所有できるのです。
息子、娘を生んで育てることを忌避する人が多くいます。自分たちが結婚し、離婚するときに息子、娘が妨げになると考えているので、子女をもつことをはばかるのです。しかし人間は、生まれて四位基台を造成しなければ、神様が人間を愛する心情を知ることができないので、天国に行けないのです。