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Sunday Sep 01, 2024
イエス様の生涯と愛 第8話
Sunday Sep 01, 2024
Sunday Sep 01, 2024
それで母のリベカは、天側の息子であるヤコブと一つになり、自分の夫であるイサクを天使長の立場に立てたのです。そうして、天使長の長男であるカイン格のエサウが受けるべき祝福を奪って、天側に取り戻したのです。このとき兄のエサウは、ヤコブを殺そうとしました。それゆえヤコブは、ハランに逃げて、そこで二十一年間過ごすようになったのです。
そのようにしてヤコブは、兄エサウと交渉がうまくいき、命が助かったのです。自らの僕たちと、二十一年間にためた財物をお兄さんに与えてエサウの心を動かし、結局エサウは、ヤコブを殺さずに迎え入れるようになったのです。そうなることによって、死ぬべきカインのような立場ですが、死なない立場に立ったので、結局ヤコブは、エサウが屈服したという条件を立てたのです。そうして初めて「イスラエル」、すなわち「勝利した」という民族圏をもつことになったのです。
ヤコブは、ヤボク川で天使と組み打ちして勝利しました。それはアダムが霊的天使に敷かれて失敗したことをひっくり返し、人が天使を下に敷いたという条件を立てたのです。このように天使長の実体と同じ立場にあるエサウが、ヤコブに屈服する内的基準をヤコブが既に立てたので、外的なエサウも屈服するという結果をもたらしたのです。聖書を見ても、すべて否定できない事実です。
今から数千年前にあったことです。旧約聖書は、およそ八百五十年の間、数多くの人々の手によって記録されたものですが、このような体系を中心に記録されたということは、一つの思想的な主人がいて、預言者を通して記録したに違いないのです。ですから、「神はいない」とは言ってはいけません。
双子のエサウとヤコブが闘って、どちらが勝ったでしょうか。ヤコブが勝ったでしょう?それゆえに(カインとアベルが)ひっくり返ったでしょうか、ひっくり返らなかったでしょうか。ひっくり返ったのです。何歳ぐらいにひっくり返りましたか。四十歳を過ぎてからです。四十歳を過ぎてから双子で生まれた兄弟がひっくり返ったのですが、生まれる前、腹中においては、まだひっくり返っていません。それでサタンがかみついてくるのです。
タマルを通した腹中復帰摂理
アブラハム、イサク、ヤコブ、三代目のヤコブにユダという息子がいます。ユダ支派を形成したユダは、ヤコブの四番目の息子です。四番目というのは、東西南北、春夏秋冬というように四番目から四方の基準が現れて、春の季節を迎えるようになるのです。それで四番目の息子が祝福を受けるのです。
ユダに嫁がいました。誰だか知っていますか。タマルです。タマルがユダの長男に嫁いできたのですが、その長男が子孫もいないまま死んでしまいました。ユダヤの国では、その昔、祝福を受けた血統は途絶えてはいけませんでした。また、女性が子孫を残せずに死ぬというのは、女性としての道理ではなかったのです。そうなれば、祝福を台無しにする女性になるのです。
それでユダヤの国の法には、兄が子供を生めずに死んだ場合、その兄嫁を弟が引き継いで迎えるようになっていました。それは悪いことではないのです。祝福を受けた女性を捨ててはならないことになっていました。外国に送り出してもいけませんでした。サタン側に送り出すことはできないということです。
それゆえ、弟が兄嫁を迎えて暮らしたのです。しかし、その弟も死にました。ですからタマルは、自分の一代において祝福された血族を残せないことに対して、命を失うこと以上に苦悩するようになりました。自分は死んでも、どうにかして祝福された血族を残さねばならぬという使命感、神様の祝福を残す道を追求する思いが、タマルは誰よりも強かったのです。
それを成し遂げる道があるならば、体面も顧みず、生死も意に介さず、命を懸けて行くという立場でした。そのような立場に立ったので、「大変なことになった」と思い、自分の舅と関係を結ぶ計画を立てたのです。それでタマルは、舅が羊の毛を切るために行き来する所を知っていたので、道端で遊女のように仮装をして舅を誘惑したのです。そうして舅と一つになって子を身ごもるようになりました。
Sunday Sep 01, 2024
イエス様の生涯と愛 第7話
Sunday Sep 01, 2024
Sunday Sep 01, 2024
人間は、父と母の愛を通して生まれます。ところがその愛が誤ったので、生まれるのも誤って生まれるのです。それはどうしようもありません。このように誤った愛を通して生まれることによって野性のオリーブの木になったので、その枝を完全に切ってしまい、真のオリーブの木の真の愛の枝を接ぎ木しなければなりません。数千年育った野性のオリーブの木の枝を完全に切ってしまい、精誠を込めて真のオリーブの木を接ぎ木しなければならないのです。
ヤコブとエサウを中心とした血統復帰摂理
神様は、これをひっくり返す摂理をしてこられました。ひっくり返そうとするならば、どこまでひっくり返さなければならないのでしょうか。兄弟同士ひっくり返したとしても、成長したあとにひっくり返したとするならば、それ以前が問題になります。四十歳にひっくり返したとすれば、四十歳以前まではひっくり返していない結果になるのです。それで四十歳以上の人は救いを受けるかもしれませんが、四十歳以前の人は救いを受けられないのです。サタンがかみついてくるのです。これがなかなか治らない病になっています。
それゆえ、神様は仕方なく再び摂理をされるのです。アベルが死んだあとにセツを立てて、セツの一族を中心として、どこを尋ね求めていくのかというと、女性の腹中を尋ね求めていくのです。堕落は腹中から起こったからです。愛の種は腹中を通して生まれました。それゆえ、腹中を尋ね求めて入り、ひっくり返すのです。これがどれほど途方もないことでしょうか。
腹中に入っていってひっくり返さずしては、サタンが生まれてくる生命自体を神側に送ろうとしないのです。ですから、人々を逆さまにひっくり返すためには、やむを得ず父母の腹中にまで尋ね求めて入り、闘って勝敗を決めるという、そのような闘いをしなければならないのです。それゆえキリスト教は、歴史上にかつてない、神様のみ旨に対する宗教であるということが、ここに明らかにされるのです。
これをカインとアベルの兄弟からひっくり返そうとしたのですが、それができませんでした。それで兄弟の位置を狭めていくのです。兄と弟をひっくり返せる交叉点まで尋ね求めていくのです。そのようにして、カインとアベルの代をセツが継いでそのみ旨に従わせ、ヤコブとエサウの時代が来るようになったのです。ところが、一段階近い位置に行こうとするので、双子を立てて摂理せざるを得なくなったのです。どれほど近づきましたか。兄弟は兄弟なのですが、双子の兄弟なのです。
ここでまた闘わなければならないので、ヤコブとエサウが闘うことになったのです。イサクは誰を祝福しようとしましたか。兄エサウを祝福しようとしたでしょう?しかし、このエサウを祝福するようになれば大変なことになるのです。それで母のリベカが後ろ盾して、ヤコブを助けてあげるようになったのです。ここから母子協助が出てくるのです。
女性が先に堕落したので、神様の息子、娘を解放させるために、生まれるに当たっては女性が協助しなければなりません。女性が、サタンに引っ張られていくのではなく、神様の前に行くための助けをするのです。
ここでのイサクは、天使長の立場です。リベカは、自分の夫であるイサクをだます工作をして、ヤコブにすべての祝福を受けさせます。ところが、聖書を文字どおりに受け入れるとすれば、兄をだました詐欺師のヤコブが、いかにして神様の祝福を受けられたのかという疑問をもつことでしょう。しかし、奪われたものを取り返さなければならないので、そのようにしなければならないのです。天使長に奪われたものを取り戻すのです。
エサウとヤコブの路程において、母と息子が合同工作をして、誰をだましましたか。父をだましたでしょう?イサクをだましました。この三人はアダムとエバ、天使長と同じ立場です。イサクは天使長と同じ立場であり、息子のヤコブは将来来るべきアダムと同じ立場です。したがって、希望の息子として生まれ得る立場です。そして母のリベカは、エバと同じ立場です。堕落したエバは、神様の息子を身ごもれなかったという側があるので、希望の息子を出産することが願いなのです。
Saturday Aug 31, 2024
イエス様の生涯と愛 第6話
Saturday Aug 31, 2024
Saturday Aug 31, 2024
抜き取ってしまうべき偽りの血統
サタンとは何でしょうか。神様の姦夫です。神様にとって愛の怨讐である姦夫のことです。
神様は、これを許せば天理の原則から外れるので、許すことができないのです。それゆえ、今日、サタン世界の人間は、百回、千回許すことができても、サタンだけは絶対に許せないのです。それで大審判があるのです。大審判とは、誰を審判するのかというと、人を審判するのではなく、人間に対して主人のように君臨しているサタンです。
祈祷をするとき、神様のことを何と呼びますか。神様を主人と呼びますか、父と呼びますか。父と呼ぶでしょう?本来、生まれるときはみな、神様の直系の息子、娘の血筋を受け継いで、神様の愛の中で永生できるように生まれるべきなのに、エバが怨讐サタンに強奪されることによって、偽りの血統を受けてこの世に生まれたのです。
サタンが本来の父を殺してしまい、母を奪って生んだ子供たちが、今日、堕落した世界の人間なのです。これはいくら腹を立てたとしても、仕方のない厳然たる事実です。ですから、皆さんの血と肉には、すべて神様の怨讐であるサタンの血が流れています。神様の怨讐の血が流れているのです。これを抜き取ってなくさなければならないので、今日、宗教では体を打つようにするのです。体を打つ運動として、「体を打ちなさい!犠牲になりなさい!断食をしなさい!」というのです。今日、この地上に生きる世界の人類はみな、サタンの子供たちなのです。
では、アダムとエバが仮に堕落しなかったら、どうなるのでしょうか。神様の基準に上がって、神様を中心として三位一体になったことでしょう。そうして、ここから生まれた子女たちはみな、天国に行ける息子と娘になるのです。そうなっていたら、祈祷や宗教は何のために必要でしょうか。信仰という名詞は、人間には必要でなかったでしょう。父を信じるのですか。父は救い主だとか、救ってほしいとか、何を祈るというのですか。ただ父の懐にぱっと飛び込み、父に乗っかって座り、ひげを抜いても平気なのに、信じるとは何を信じるのでしょうか。
野性のオリーブの木と真のオリーブの木
聖書を見ると、カインとアベルが互いに争いますが、それもアダムが堕落したからです。アダムが堕落することによって、人間は神様もサタンも対し得る中間位置に置かれるようになりました。それゆえ神様は、アダムとエバを中心としては、救いの役事、すなわち復帰ができないのです。なぜでしょうか。彼らは堕落した張本人だからです。
善悪の実とは何でしょうか。善悪の実は、ただの善悪の実でしょうか。聖書は、はっきりとせず曖味です。善悪の実を取って食べてから、なぜいちじくの葉で下半身を隠したのでしょうか。なぜ、こともあろうに下半身を隠したのかというのです。恥ずかしいから隠したのです。それならば、なぜ恥ずかしいのでしょうか。
今日、私たちが堕落した社会の慣習的な観念をもって、「恥ずかしいと思うから恥ずかしいのだろう」と言うとすれば、それは話になりません。恥ずかしいのならば、なぜ下半身だけ恥ずかしいのかというのです。恥ずかしいならば、目は恥ずかしくなく、鼻は恥ずかしくなく、耳は恥ずかしくなく、頭は恥ずかしくなく、手足は恥ずかしくないのでしょうか。
また聖書を見ると、生まれ変わらなければならない(ヨハネ一ニ・3)という聖句があります。生まれ変わらなければならないという言葉は、誤って生まれたことを意味します。人がこの世に生まれるときは、何を通して生まれるのでしょうか。善悪の実を通して生まれるのでしょうか。違います。愛を通して生まれるのです。人は親の愛を通して生まれるのです。
しかし人類始祖は、愛を通して生まれたことは生まれたのですが、神様が愛し得る、万宇宙に誇り、宣布できる喜びの愛を通して生まれなかったのです。神様が非常に悲しまれ、サタンが非常に喜ぶ愛を通して生まれたのです。
Saturday Aug 31, 2024
イエス様の生涯と愛 第5話
Saturday Aug 31, 2024
Saturday Aug 31, 2024
愛は絶対的なので、愛の関係を結ぶようになれば、全宇宙がその前に主管を受けるようになっています。創造原則がそのようになっているので、サタンが先に占領したものを神様がその原則を無視して、ただで奪ってくることはできないのです。もし神様の愛と一つになっているならば、誰が切るでしょうか。切る者はいないのです。
では悪魔サタンとは、何者でしょうか。神様を中心として見るとき、神様の愛の怨響です。すなわち姦夫なのです。これを許してしまったら、天地がひっくり返ってしまうので、本然の愛を取り戻すためには、許すことができないのです。これを審判せずしては、取り戻せないのです。それゆえ、不倫なる愛の関係を、神様は一番怨讐視するのです。これが拡張したので、神様は安着できないのです。
愛というのは、独りでいるときに生じても、愛は相手から来るという事実を知らなければなりません。愛の根拠地がどこかというと、私ではなく相手なのです。その高貴なる愛を受けようとするなら、頭を下げなければなりません。今日、この世の愛はすべて誤った愛です。このような血統的な問題があるために、神様も六千年間、苦労してこられたことを知らなければなりません。
ローマ人への手紙第八章23節を見ると、「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられる(養子となる)こと、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」とあります。養子になるというのです。神様の前には直系の息子になれないのです。養子というのは血筋が違います。
聖書を見ると、長子は祝福を受けられませんでした。神様は、悪魔サタンの子が初めて生まれたのを見たとき、どれほどあきれたでしょうか。打ち殺したかったことでしょう。アダムとエバも一度にみな、打ち殺したかったことでしょう。しかし、人間を創造されるとき、永遠であられる神様の前に絶対的な相対として創造されたので、破壊してしまえば神様の創造原則から外れることになるのです。創造原則から外れてしまうので、殴ろうとしても殴ることができず、打とうとしても打つことができず、破壊しようにも破壊できない立場に置かれているのです。
それでは、誰ゆえに失敗したのでしょうか。悪魔サタンゆえです。ですから、奪い返してこなければならないのです。奪う際には、悪魔サタンがすべて所有したので、サタンが前から引っ張っていけば、神様は後ろからついていくしかありません。それゆえ神様は、取り戻してくる計画を誰からすべきかというと、サタンが一番目の息子を引っ張っていったので、二番目の息子からしなくてはならないのです。
天使がアダムを主管しました。僕が息子、娘を支配したので、反対に天の側の人が僕を逆に支配しなければならないのです。コリント人への第一の手紙第六章3節を見ると、「あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使をさえさばく者である」という聖句があります。天使までも審判しなければならないというのです。それほどまでに途方もなく、それほどまでに高貴な人間なのに、今日の人間は、美人とか美しいものがあれば、「天使のように美しい」と言います。天使は比べるものではないのです。それゆえ、サタンよりもましでなければなりません。
神様が本来、主管すべき人は、サタンよりもあとに生まれたという人ではありません。サタンよりも先に生まれたという人を主管しなければなりません。生まれたのは、サタン側が先に生まれたのですが、天の側が先に生んで愛さなければならないのです。ところが、左にいるべき悪魔サタンが右に行き、右にいるべき神様が左に来たのです。これを逆にして正さなければならないのです。正すには、あとに生んではならないので、先に生まれたという立場を探し求めなければならないのです。
その次には、悪魔サタンよりも愛さなければならないのです。悪魔サタン側の息子よりも、天の側の息子のほうを愛さなければならないのです。愛そうとするならば、サタンと血統的な関係をもってはいけません。それで母親の胎内に取り込んで、再び息子が生まれて出てくるようになるとき、サタンは讒訴条件をもてないのです。そのようにして神様は、愛し得る息子を探し求めるための運動をしたのです。
Sunday Aug 25, 2024
イエス様の生涯と愛 第4話
Sunday Aug 25, 2024
Sunday Aug 25, 2024
サタンと血縁関係を結んで堕落した人類
創世記には、アダムとエバがサタンの誘惑に遭い、善悪の実を取って食べたとあります。取って食べるときは、目で見て、手で取り、口で食べたはずです。それならば、目を隠し、手を隠し、口をふさがなければならないのに、いきなり下半身を隠しました。こうしてエバが堕落したのです。
その次には、何も知らないアダムに向かって無理やりに、善悪の実を取って食べるように言いました。手で取って口で食べたはずなのに、取って食べたアダムも下半身を隠しました。人には、傷のある所を隠す本性があります。男性は顔に傷があれば、何とかして顔を隠そうとします。ましてや女性は、小さな傷があってもそれを隠そうとするのです。結局人は、傷のある所を隠したがるのです。アダムとエバが下半身を隠したということは、その下半身が傷になったからです。それは否定できません。
ヨブ記第三十一章33節に、「わたしがもし(アダムのごとく)人々の前にわたしのとがをおおい、わたしの悪事を胸の中に隠したことがあるなら」という聖句があります。結局は、恥ずかしい所を隠したのです。
それでは、人類始祖が不法なる不倫の貞操関係によって犯した事件があったという観点から、聖書を再び調べてみましょう。ヨハネによる福音書第八章44節を見ると、イエス様が不信仰な人たちに対して、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている」と端的に結論づけて語っています。それから不信仰なパリサイ人に対して、「まむしの子らよ」(マタイ一ニ・34)と指摘して宣布したのです。
これらのことを見ると、堕落した私たち人類は、血統的な関係で犯行を行ったと結論づけることができます。堕落しなかったなら、私たち人間は完成して聖殿となり、神様の体となり、神様の神性を受け得る神聖な体になっていたことでしょう。そのようなことが、神様の愛の中で成就されなければならなかったにもかかわらず、その体をサタンが侵犯することによって、サタンの僕となり、悪性を受けた人間になってしまったのです。
堕落しなかったなら、アダムとエバは神様の体になり、神様の愛の中で一つとなり、家庭を築いたことでしょう。そこに息子と娘が生まれれば、その息子と娘は、神様の息子、娘であると同時に、アダムとエバの息子、娘になるのです。神様が直接主管する家庭になり、氏族になり、民族になり、世界になり…。そのようになれば、地上に自動的に天国が形成されるはずでした。
ところが、悪魔サタンが侵入し、血統的に蹂躙することによって、アダム、エバと一つになり、子孫を繁殖したのが堕落です。その子孫が世界的に繁殖したのが、今までの人類なのです。
堕落しなかったなら私たち人類は、神様と共に真なる父母(アダム家庭)を中心として形成されたはずですが、堕落することによって、偽りの父母と偽りの息子、娘ができてしまいました。真なる世界の代わりに、悪なる世界になったということは、人類にとって恨めしいことであり、神様にとっても恨めしいことになったのです。
このように(サタンが)血筋を通して侵入してきたので、自動的にアダムの家庭を中心として繁殖していきました。悪魔サタンが、人類の中心になったのですから、サタンはこの世の王にならざるを得ないのです。それと同時に、私たちは切っても切れない悪魔サタンの血筋を受けて生まれたのです。血統的に原罪をもって生まれたのです。
神様の血統を受け、永遠に神様の愛を受けるべきこの体が、神様の怨讐であり、本然の人間に対しても怨讐である悪魔サタンの血を受けて、地獄に引きずられていかざるを得ない恨めしい立場にあるという事実を、今まで知りませんでした。神様を中心として平和な天国で理想的に楽しく暮らせる家庭をサタンが奪い、不幸と地獄の世界をつくったのです。それによって、神様は追い出されたのです。
Sunday Aug 25, 2024
イエス様の生涯と愛 第3話
Sunday Aug 25, 2024
Sunday Aug 25, 2024
人間は真のオリーブの木になれず、野性のオリーブの木になったので、切ってしまわなければならないのです。そして、再び真のオリーブの木に接ぎ木しなければ、救うすべがないのです。
ですから、人類歴史は宗教とともに出発したのであり、宗教は人類とともに流れているのです。なぜそうなのでしょうか。希望の道を発見しなければならないからです。神様は人間が堕落したその日から、創造主としての責任を担われ、堕落した人間を救う摂理を展開するために、歴史過程を経ながら今まで苦労してこられたということを私たちは知らなければなりません。
神様の約束を果たすために、神様のみ旨を中心としてこの地に来られた方が、イエス・キリストです。彼は過去の歴史時代において、人間が僕の立場にあるとき、神様と結んだ約束を果たして、養子と真の息子の因縁をもてる立場を立てるために来られたのです。僕が忠臣の道理を果たすときには、養子の位置に立てるのです。それゆえ、復帰摂理歴史を経てきながら、イスラエル民族に僕として忠誠を果たし得る土台を築かせ、養子の因縁を結ぼうとしてこられたのです。
養子の因縁は、どのように結ぶのでしょうか。神様の息子がこの地上に来なければ不可能なことです。神様の息子がこの地上に来なければならず、その息子の命令を聞いて、それに従順に従ってこそ、養子の因縁を結べるのです。これが旧約時代と新約時代が連結する歴史だということを、私たちは知らなければなりません。
旧約を信じてきた人々は、僕として養子の恵沢にあずかることを望むのですが、それが正にメシヤが来ることを望む理由です。すなわち、メシヤによって僕の悲しい境遇を越えて、養子圏の立場に進むことが彼らの願いなのです。養子というのは、直系の息子、娘がいないとき、親から相続を受けられる因縁が成立する立場です。
そのようにして、僕の立場を超越し、神様のみ旨を迎えられる恵沢にあずかることを望みながら歩ませたのが、僕の旧約時代を指導してこられた神様のみ旨です。ゆえに彼らは、僕の境遇を免れ、神様の相続を受け得る圏内に入れる特権的なその時を願ってきたのです。それがイスラエルの選民思想なのです。
イスラエル民族を、世界を代表した民族、外的世界を相続できる民族として約束し、イスラエル民族とユダヤ教を指導してこられたのです。ここで、息子と養子が一つにならなければなりません。僕は、神様の息子が来るまでに養子の土台を築き、息子が受けるすべての困難を解決したあとに息子を迎え入れ、その直系の息子と一つになる位置に立たなければなりません。そうしなければ、天国に入れません。言い換えれば、神様の血統ではなく、サタンの血統を受け継いで生まれた息子が、神様の前に養子として公認されれば、直系の息子は、アベルの立場でカインの立場にある養子を復帰しなければならないのです。
このような歴史的な因縁があるので、世界的な因縁を代表した教団と国として、養子圏の立場に立たなければならないのが、イスラエルの国とユダヤ教だったのです。そして、直系的権威に立たなければならないのが、神様を中心としたイエス・キリストが提示したキリスト教とこれを中心とする世界国家でした。
このように、世界を代表したイスラエルの国とユダヤ教をイエス様の前に捧げるようになれば、一国と一教団を捧げることによって、すべての国とすべての宗教を統合し得る権勢をもって来られるイエス様と、連結されることが起こるようになるのです。
すなわち、イスラエルの国とユダヤ教をイエス様の前に奉献してこそ、イエス様がもってこられた天上・地上天国を、この地上で相続し得る圏内に入れるのです。イスラエルの国が僕として責任を果たし、イエス様を誠意を込めて迎えなければならなかったにもかかわらず、反対したためにその道が途切れてしまったのです。
Sunday Aug 25, 2024
イエス様の生涯と愛 第2話
Sunday Aug 25, 2024
Sunday Aug 25, 2024
第一章 イエス様誕生前の摂理
ー、メシヤ降臨のための血統復帰の摂理
神様は一つの特定の民族に約束をなさり、希望をもたせ、その民族を通して摂理を進めてこられました。その特定の民族が、イスラエル選民です。それでは、そのイスラエル民族の目的とは何でしょうか。世界の国を占領することではありません。イスラエル選民の願いは、世界を征服することではなく、メシヤを迎えることです。メシヤとは何でしょうか。救世主です。
救世主とは何でしょうか。真の人間の原型です。工場に行ってみれば鋳型というものがあります。ある物がつくられているのを見ると型があって、そこに材料さえ入れれば、ガチャンガチャンと何千個でも何万個でも同じ物が出てくるでしょう?救世主とは、そのような鋳型のような人間なのです。すべての人間のモデルなのです。
その方が来られることによって、その方と一つになれば救われるのです。質は異なっていてもいいのです。質は異なっても、形さえ一つになれば救われるのです。人がみな、イエス様と同じになることはできません。形さえ同じならばいいのです。丸い形ならば丸い形として、全く同じでなければなりません。そこに角があってはなりません。角があれば、その角を切り捨てなくては、合格品になれないのです。
人間世界に歴史上初めて、神様が描いた最高の型として、「人はこのようでなければならない」という、その型を代表して来られる方がメシヤなのです。イスラエル選民は、そのメシヤが来ることを願ったのです。今日の世界もそうです。今日、世界中の宗教は、すべてメシヤ思想をもっています。
メシヤは生命を中心とした心の愛と、生命を中心とした最高の人格の標準になる方です。この方を一つのモデルにして、今までサタン世界で受け継いだ信念や愛の感性をすべて埋葬し、無の状態にしなければならないのです。そして本来、堕落していないアダムの体と同じ、本性である心の愛を中心として一〇〇パーセント和合できる体を見つけなければなりません。次に、本然の心の愛を実体の体と結びつけて、堕落の因縁を抜け出した一人の男性にならなければならず、神様の体、すなわち内的な聖殿を築き、神様と一つになって登場できる一人の男性にならなければなりません。このような男性がメシヤです。
メシヤとは何でしょうか。人類で初めて、神様の愛を中心として生まれた愛の先祖です。したがって、イエス様や再び来られる主は、本然の心を中心とした愛の世界の父、宇宙の愛の父になるのです。私の心と体は互いに離れられません。体は心の愛を受けなければならないのです。
心と体が一つとなった立場に立っていない人間は、そのような立場に立っているという条件を立てて、神様に接ぎ木をしてもらわなければなりません。メシヤと堕落人間は種が異なるので、幹を切って接ぎ木されなければなりません。これが今までの復帰摂理の経路です。
Sunday Aug 25, 2024
イエス様の生涯と愛 第1話
Sunday Aug 25, 2024
Sunday Aug 25, 2024
はじめに
文鮮明先生は、世界の宗教界、学界、政界など各界の指導者から、八つの分野について最もよく知るチャンピオンであると言われています。八つの分野とは、以下のとおりです。
(一)神様
(二)サタン(悪魔)
(三)人間
(四)霊界
(五)イエス様
(六)聖書および各宗教の経書の核心内容
(七)人類歴史
(八)真の家庭の価値
本書は、文先生が今日まで語ってこられた説教(『文鮮明先生御言選集』)の中から、イエス様の生涯に関連するみ言を抜粋し、編集した『イエス様の生涯と愛』(二〇〇二年、韓国・成和出版社発行)を翻訳し、整理したものです。
二千年前に人類救済のためにイエス様が、どのような心情と事情の中で歩まれたのかを理解することができるとともに、自分自身があたかもその場にいたような錯覚すら覚えることでしよう。また、聖書に登場するマリヤ、ヨセフ、洗礼ヨハネをはじめとするイエス様の周りの一人一人には、どのような使命があり、どのような責任を果たさなければならなかったかについても明確に記されています。
一般的に、キリスト教の信仰を受け入れることの妨げになっている理由の一つに、マリヤが聖霊によってイエス様を身ごもったことや、イエス様が十字架にかかったとき奇跡が起きずに亡くなられたことが挙げられます。今日まで誰も明確に解くことのできなかったこれらのことについても、文先生は聖書の記述に沿って詳しく述べておられます。
文先生は、一九四一年から二年半、日本に留学されました。その後、再来日されたのは一九六五年一月のことです。約二十一年ぶりに日本の地を踏まれた文先生は、日本統一教会の青年たちに多くのみ言を語られるとともに、教会員と交流の場をもたれました。そのとき、ある青年がイエス様の人物像について質問をしました。
そのとき文先生は、天井を見られてからすぐに下を向かれました。そのときボタボタと水滴が畳に落ちる音がしたのです。それは、イエス様の心情をよく御存じである文先生が、悲しい孤独な道を歩まれたイエス様を思って流された涙でした。
イエス様は、三十三歳で十字架にかかって亡くなられました。一般のキリスト教では、イエス様は十字架で死ぬために来られたというのが定説です。ところが本書で文先生は、イエス様は死ぬために来られたのではなく、結婚し、神様を中心とした家庭を築き、地上天国を創建しなければならなかったと説かれます。それだけでなく、イエス様は十七歳、二十七歳、三十歳のときに結婚したいと家族に告げたと、文先生は語られています。
文先生が解かれた内容は、今までのキリスト教の教理と異なる点があるため、文先生は世界的に迫害の道を余儀なくされました。しかし現在、世界の多くの有識者が文先生の人格と教えと活動に感動し、神様を中心とした世界的な運動と基盤が築かれつつあります。
本書を通じて、神様がイエス様と文先生に託された神様の理想(神様のもとの一つの家族)が、一日も早く、世界に実現されることを祈るものです。
二〇〇九年六月吉日
Monday May 13, 2024
御旨と海 第101話
Monday May 13, 2024
Monday May 13, 2024
偉大な文学
海ではどのような種類の人々が見出だされるでしょうか。勇気ある男に従う勇気ある男達です。では女達についてはどうでしょうか。
もし夫が非常にひどい下痢になって寝ているとしたら、夫に対して、どうか家にいて漁に出るのは延期してくださいと頼むでしょうか。それとも、彼女は立ち上がって「よし、では私があなたに代わってその使命を続けます」と言うでしょうか。もしその女性がそのような決意を持っているならば、船の舵輪すらも目を覚まして、今まで多くの男達の荒っぽい手で扱われて来た後なので、そのような柔らかい女性の手が触ってくれることを幸せに感じるでしょう。皆さん、女達がそのような使命を引き受けるときには、海の水ですらも皆さんに対して、荒々しくありたいとは思わないでしょう。彼らはそのような美しい女性に対して良くありたいと思います。また海の跳びはねるしぶきですらも微笑んで「私はあなたのスカートにすがりつきたい」と言うでしょう。
詩のような光景ではありませんか。このようにして偉大な詩や文学が生まれたのです。先生が海について話し始めると、まだまだ話すべきたくさんの話や伝説、神話があります。時々、先生は鳥に向かって話しかけます。すると鳥達も先生の考えていることに従うかのようにこちらに飛んで来て、止まったりするのです。そして先生が「さあもう行きなさい」と思うと、鳥達は突然飛び立って行くのです。
文学というものは、そのような自然との交わりを表現しながら書かれるものです。被造物は人間に対して「もしあなたが、私が離れたとしても愛してくれるなら、私はあなたから離れて行きましょう」と言います。人間と被造物はお互いに慕いあっています。それは丁度男性と女性のとの間の愛のように慕い合うのです。
もしある男性とある女性がエンパイヤ・ステート・ビルの頂上、地上百二階の所でデートをすれば、それは非常にロマンチックです。しかし、なぜそのようなデートがロマンチックだと考えられるのでしょうか。それはそのような高い建物はユニークであり、その二人の男女は地上の最も高い地点の一つで出会っているからです。誰も注目していないとしても、彼らは自分達が世界のトップにいる王様と女王様として出会っているかのように感じるのです。
ある男女が南極点で出会ったとしましょう。その周りには誰もいません。すべてが氷と雪だけです。ペンギンだけがお互いにキスをしています。そのようなことは想像するだけでもロマンチックな瞬間です。何か信じられない位刺激的な経験をするためには、普通の人達がしないようなこと、ユニークで挑戦的で、特別のことをしなければなりません。そういうことなくして皆さんは、刺激ある陶酔と美を得ることはできません。
アラスカ
先生は最近、アラスカへ二回行って来ました。アラスカは住んでいる人もほとんどいない神秘的な処女地です。そこは、熊や、野生の動物の土地です。大部分の人達は、アラスカは雪や氷河に覆われ、また海岸線はギザギザとしていて、白鯨やアシカやオットセイのいる所だと考えています。ある日、先生は小さな島へ行き、そこで何匹かのアシカに出会いました。彼らは先生を見るや否や、歓迎の声を上げ「あぁ、あぁ、あぁ、あぁ、あぁ」と叫び始めました。彼らは一斉に声を上げ、その声は非常にユニークな響きでした。しかしそこには二つの区別すべき声がありました。一つは雄の声、もう一つは雌の声でした。それらが一つに調和して、すばらしいコーラスを作っていました。
そこには鯨やハリバットもいました。ハリバットというのは平目のような平べったい魚で、三百ポンドにもなるのです。おそらく、ハリバットのことを知らない人が多いでしょう。だから神様は「お前達は哀れな者だ。私が生き物を創って、お前達に与えたのだ。お前達はここへやって来ようともしない。お前達は私の創った物を見ようとさえしないし、それを楽しもうとさえしない。お前達は哀れな者達よ」と考えておられることでしょう。
神様は勇気ある人々に関心があります。神様御自身が冒険好きであり、また神様は我々人間をそのような者として創られたのです。
アメリカの女性
先生はこういう特別の経験をした後で、アメリカの女性達はどうあるべきかについて考えてみました。アラスカで、先生はある夫婦に出会いました。その男性はそこにずっと住んでいます。そこで先生は、なぜこの夫婦がそこに住んでいるかを知りたいと興味を持ちました。「なぜ、あなたはここに住んでいるのですか」と尋ねました。「なぜなら、我々は自由が好きだからです。完全な自由を愛するからです」と答えました。彼らが説明するには、ニューヨークやその他ではちょっとどこかへ行こうとすると、すぐに誰かにぶつかります。あるいは、いつも誰か他の人の領地に足を踏み込んでしまいます。そうすると彼らは「だめだめ、それに触らないでくれ」と言います。しかし彼らが言うには、アラスカでは何年走り続けたとしても誰にも迷惑がかかりません。だから「全くの自由です」と彼らは言うのです。それはすばらしいことだと思いませんか。アラスカは法律的には、アメリカ合衆国に属していますが、この夫婦のようにそこに住んでいる人達は、文字通り国境がないのです。
先生がその女性を見ると、彼女は非常に小さくてやせていました。しかしこのアメリカ女性は、腹のある人でした。彼女はビジョンを持っており、また普遍的な心の持ち主でした。彼女は自信と確信を持っています。だから熊狩りに行く時でも、彼女は熊をやっつけることができるのです。それで先生は思いました。「これこそまさに、西部開拓のアメリカ人をして、新しい地平線へと駆り立てた女性の精神だ。これが開拓者魂だ」と思ったのです。
では彼女はどうしてこのような男性に出会い、結婚するようになったのでしょうか。彼女が打ち明けてくれた所によると、彼女は世界中を旅行して歩いたということです。そして、世界中で様々なタイプの人、文明人であり教育のある人を始めとしていろいろな人に会いました。その後彼女はアラスカに来て、心が素朴で欲のない人達に出会いました。海に出かける人達は漁師でした。また、山に出かける人達は猟師です。しかし、ここには漁師と猟師の両方を合わせた人が生きています。この男性はその心の素朴さと自然で欲のない性格によって、彼女の心を完全に虜にしました。そこで彼女は彼と結婚し、それ以来、その環境の下で生活しています。ここにおいては、彼が何をしようとも裸のまま、つまり心のまま誠実であることができます。だから、彼らが隣人に会う時、あるいは知らない人に会う時でも彼らはすべてのものを愛する以上に愛してきました。
普通は、ある漁師が自分の良い釣り場を持っていると、それを自分だけのものとして隠したがります。ところがこの人が言うには「ここは漁師の天国だ。あなたはもっと大きなものを釣ることができますよ」と言いました。この人は本当に他の者を助け、他の者に奉仕しようとしていました。先生がそこにいた時も、彼は他の人のために、餌や道具を準備し、そして先生の一行に大きな魚を釣らせようとしました。彼らは先生達が大きな魚を釣ることを望んでいました。
その日は、たくさんの魚が釣れました。先生はとてもその人に感謝し、その日の終わりに、彼に感謝の印として贈り物を上げようと思いました。ところがその男は「いや、結構です。皆さんを手伝うことが私にとっての光栄であり、特権です。もしそれを私にくださると私の栄光が失われてしまいます」と言いました。先生は後で使いをやって、どうかその贈り物を受け取ってくれるように説得しました。しかしその人は受け取ることを断固として断わりました。しかし遂にその謙遜な人は譲って、自分はレバレンド・ムーンの美しい心を見たから、その贈り物を受け取りますと言いました。そこで先生は「長い間経って、ようやく久しぶりに自分は真のアメリカ人に出会った」と思いました。
鮭
いろいろ検討した結果、鮭こそがムーニーの魚となるべきであり、鮭こそがムーニー・スピリットを象徴するものであると決定しました。雄と雌の鮭は、並んで共に川を上がり産卵の場所まで泳いで来ます。彼らがはるばるそのような旅をする目的は、卵を生むということです。そして、夫婦は卵を産む場所で川底を掘り始めます。産卵の間、雄は雌を守るようにその周りを泳ぎ回ります。やがて彼らの皮膚の色と筋肉が変化し始め、そして卵を産むという使命が完遂された後は、彼らは命を捧げて死んでしまいます。彼らの体はやがて腐敗し、そして卵からかえったその小さな魚のための飼料となるのです。
これが彼らの運命ですが、卵を産むことによって繁殖することに成功します。それは愛のためなのです。彼らは恐れることなく、共にその運命に向かって進んで行きます。これは本当に見るのは美しいことです。先生はこのような鮭の中に理想的な夫婦のイメージを見ました。すべての人類が鮭のように生きる時、神様の住み給う所が人間と共にあるようになり、神様は人間の中で幸せとなられるでしょう。なぜ神様は鮭を創ったのでしょうか。それは人間を教育し、人間が従うべき模範を見せるためでした。では、結論を言いましょう。オーシャン・チャーチは、神様の理想を教えるために創られました。海の被造物を通し、海に対する真の愛と海に対する真の主管ということを得ることができます。各自は、神様と共に共同の創造主となり、神様の創造という偉大な御業に参画し、そして被造物を友として理解することができるようになります。
Monday May 13, 2024
御旨と海 第100話
Monday May 13, 2024
Monday May 13, 2024
人間の性質をさらけ出す
先生は、希望のない人達をいかに訓練するかを知っています。彼らを海に連れて行って、三ヶ月間海の中に蹴飛ばすのです。彼らがその海でいき延びれる限りそうするのです。そうすれば、彼らは最初のうちは惨めで、また青りんごのように青白く見えるかもしれません。そして体の中の穴という穴から何かが出て来ます。
しかし、先生はちゅうちょすることなく「彼らを海に蹴飛ばせ」と言います。そうすると一人ずつ出て行きます。船酔いをした人も病院は必要ありません。陸地にしばらく置いておけば良いのです。そうすればやがて食欲も戻って来るし、回復してきます。これが一番良い方法です。健康が回復すれば、また彼らを蹴飛ばして海においやります。そして、このサイクルを繰り返します。そしてまた海から戻って来て、ほとんど死にそうになって戻って来た彼らを休息させ、そして三度目、再び海に蹴飛ばすのです。これを三回繰り返せば、どんな希望のない人間でもチャンピオンにすることができます。希望のない人間を再び希望ある者とすること、それがオーシャン・チャーチの真のチャレンジであり、それこそこの国にとって良いことです。
さらにまた、海に対して適応性のある健康な人々はいつでも海に行く用意ができています。タイラーは最近、博士号を取ったばかりです。彼はオーシャン・チャーチに人事されるとは夢にも思っていませんでした。それでも先生は、彼に海に行くようにと蹴飛ばしたのです。彼はきっと、自分は統一神学校で良い教授になれるし、本を書いたり、他の大学に行って教えることもできると考えていたと思います。きっと彼はそういうことを考えていたに違いありません。タイラー・ヘンドリックは本当の紳士タイプのような人間です。非常に丁寧で誠実な人間です。しかし、一度海に行けば、そこにはバスルーム(御手洗い)もありません。たとえニュー・ホープであってもありません。
今年の夏、先生は女性達と男性達に船を与え、共に働くようにさせました。そして、トイレへ行く時がくるとどうしますか。何とかしなければなりません。何とかしてすっきりしなければなりません。周りにいくら女性達がいようと男性達がいようと違いはありません。そうなると腹が必要となります。自分をすっきりさせるという使命を達成しなければなりません。男達はそのような状況に直面してパニックに陥ることなく、自然にそのことに対処します。彼らはそれに対処する腹を持っていなければなりません。女達が海に行くといつものように、上品で素敵な顔つきをするようなことはありません。女も男のような顔つきになって、何とか海に対処して生き残らなければならないのです。時には、女は自分の尻をさらけ出さなければならないこともあります。しかし、そのことに構っておれません。ただ「私のお尻がちょっとさらけ出されているけれども、男の人達は目を閉じてくれるでしょうから、自分自身を盾で隠さなくてもいいわ」と考えるでしょう。
女にはそういう腹が必要です。また男達が自分の用をたす時、女達は目をつぶってくれるということを男達は知っています。だから問題はありません。そのようにするのです。もし目を閉じない者がいれば、そういう人はその結果に苦しむことになります。
海の訓練は生々しい裸の経験です。それゆえに、それを通して基本的な人間の性質が現れるのです。海の訓練は、あらゆるものをさらけ出します。海の上では隠すことはできません。だから皆さんが海に出かけて行く時には、自分自身をさらけ出さなければなりません。それを通して自らについて学ぶことができ、他の人についても学ぶことができ、また他の人といかにして調和するかを学ぶことができるのです。
別の点は、陸上で生活する時には、記録を破ったり、新しい記録を樹立するといったことは余り考えません。しかし、海に行く人は皆、いつも記録を作ったり記録を破ることを考えます。こういう人々、はいつも目標を目指して進む人達です。
この世の生活は非常に複雑です。だからそういう世の中で出世したり、出世する場所を見つけることは不可解な状態です。しかし、海に行けばチャンスがあります。誰もが皆、出発点に立っているからです。そこではゼロの時点まで下がって行き、そこから出発し、起き上がって再び勝利するのです。皆さん、男達、女達が海に行くときにはチャンピオンになるように、また新しい記録を樹立するようにしなさい。先生はそういう目標を目指した生活が大好きです。
オーシャン・チャーチのビジョンと摂理
1983年 8月28日
キリスト教、ユダヤ教、その他すべての偉大な宗教は山と何らかの関係を持っていました。モーセは四十日間祈るために山に行きましたし、イエスも山の上で断食祈檮をしました。また釈迦も山の中で霊的な探求をしなから六年間過ごしました。統一教会もそのようなことを経験しましたが、我々はそこで止まるのではありません。我々はさらに進んで、歴史上初めて「オーシャン・チャーチ」を創設するのです。
なぜお父様はオーシャン・チャーチを創り出したか
皆さんは地球を見るときに、地球表面の三分の二は水です。だから、海と陸地とどちらの方がより多くの生き物がいると思いますか。水の中です。地球上の人口は約四十億と推定されます。しかし海には何百億、何千億もの生き物がいます。海と陸地のもう一つの違いは、すべての海はつながっていて一つの海から次の海へと行くことができるということです。陸地もまたつながってはいますが、海は、一つの調和がある全体としてお互いに動いています。海は生きており、適宜に動いています。死んでいるのではないのです。この地球を覆う水面が生きているがゆえに、地球が生きているということを理解することができるのです。
これまで海は輸送のために用いて来ました。しかし、人々は海の中に隠された資源を探すために、海を掘り始めることをしませんでした。最近になってある国々は、二百海里領域を「領海」として主張しています。ますます海の資源を巡る争いが、国々を鋭く分裂させつつあります。もし捕る魚がいなくなったら、二百海里の制限というものは意味を持つのでしょうか。
人々が海の中の資源を発見し始めるようになると、恐らく彼らは三百マイル、あるいは千マイルも自分の国の領域として主張し始めるでしょう。そうすると「海の真の主人は誰か。誰が本当の主人であるか」という問題が起こるでしょう。
もし突然、ある巨大な陸地が海の真ん中に島として現れたとします。その陸地を自分のものとして主張できるのは誰でしょうか。火山の爆発は至る所で起こり得ます。自然は自然の法則に従うのです。
神様が「自分が海を創造したのだ。誰がその主人公となるのか」と言いながら被造物を眺めている時に、神様は何を探しておられるのでしょうか。神様はビジョンと勇気を持った人々を探しておられるのです。実際、神様はそのような海の挑戦するために組織され、それに投入している人々の団体を探しておられるのです。もしそのような海を愛する人々の献身的なグループを見出だすことができれば、神様は彼らに祝福を与えられるでしょう。そのような人々が、最終的に海に対する主管主たる候補者となるのです。彼らは、創造主の心を持って考えているに違いないからです。そのような勇気ある人々が世界中から一つに集まって来て、そして一つの共通の目標に向かって団結するにつれて、一つの理想、ビジョンはすべての国家や人種の障壁を越えるに違いありません。そのような国際的なグループが確立されるならば、いかなる国もそれに挑戦することはできないでしょう。なぜならば、そのようなグループは、世界的な展望を持っているからです。
オーシャン・チャーチは将来何をするのでしょうか。その目的は何ですか。それはいかに海を愛し、創造主の理想のもとでいかに海を利用し、また創造目的に従ってどのように海を主管するかということを教えることです。
海と陸地を分ける境界線は海岸です。従って、海岸はその二つの世界の結び目を表します。いずれは海岸線が最も重要となるでしょう。海岸線の財産がすべての内で最も価値のあるものとなるでしょう。
海の美しさ
海には信じられないほど様々な雰囲気が含まれています。静かな海は、美しい女性のようです。そして浜辺の砂は、まぶしい位の美しさと平和の絹のようです。しかし、それが海が与えてくれるすべてではありません。少し風が吹くと海は踊り始めます。少しだけです。どのようなバレリーナや踊り子といえども、海の踊りとは決して比べようがありません。踊り子は小さな限られた舞台の上で踊るだけですが、海は際限もなく踊るのです。その踊りの舞台には際限がありません。
海では鳥が飛び回ります。飛んで来てまた飛び去り、止まったり羽ばたいたり、すべてが様々に異なる形をして飛びますが、すべて調和が取れています。かもめがやって来て歌を歌い、美しい調和ある動きをします。時々このような美しい光景が、巨大な鯨が水の中から飛び上がって来る突然の火山の爆発のような動きによって、劇的に変化します。水しぶきが輝き、光を反射します。これも信じられない程の美しさです。それほど多くの変化と様々な動きがあります。
海が腹を立てる時にはあたかも「誰でも自分の方向に向かって来る者は飲み込んでやるぞ」と言っているかのごとく、威厳と力を示します。海はそこに浮かんでいるすべてのものを飲み込むことができるのです。
普通の場合、高速の船は静かな海をあたかも絹のハイウエーのように美しく走ります。しかし、一度海が怒り狂って高波のしぶきを上げる時には、そのような船も無力となります。波が高まれば、船は「はい、はい」と答えるしかありません。波が突然下に落ちれば、その船もまたそれに従うのみです。なぜならば、自然は最も強力であり、海は「お前は私の言うことを聞け。ここに私がいる」と言っているからです。このような理由で、海を愛する人は男も女も高慢になったり、傲慢になったりすることができません。彼らはそのような自然の圧倒的な力の前で、いかに謙遜にするかを知らなければならないからです。
陸地には緑が見えます。時として、そこではチョウチョウや鳥が飛び回っているのが見えます。しかし、すべては静的です。しかしながら海では、魚の変化はあらゆる動きであり、しかも一つの場所から他の場所へと動きます。そして自らの美を示すのです。海と陸地では、どちらがより多くの美や信じられない程の神秘がありますか。(海です)
皆さんが、自らを神様の立場において「なぜ神様が海を創り給うたのか」と尋ねれば、「それは神様が陸地には二、三日で飽きてしまうが、海は決して退屈しないからです」と答えるでしょう。それゆえに、将来のビジョンに関係する者は誰しも、海に興味を持たなければなりません。このようにしてその人はビジョンのある人となることができます。