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Sunday May 08, 2022
平和経 第199話
Sunday May 08, 2022
Sunday May 08, 2022
2.現代科学と人間の道徳的価値観
日付:一九七三年十一月二十一日
場所:日本、東京、帝国ホテル
行事:第二回「科学の統一に関する国際会議」
私はきょう、世界最高の知性である科学者の皆様が大勢集まる中、この第二回「科学の統一に関する国際会議」が日本の東京で開催されたことを心よりお祝い申し上げ、併せて、本会議の締めくくりに当たり、しばらくお話しできる機会を頂き、限りなく光栄に存じます。
これまで本会議の開催のために、様々に御苦労された日本の準備委員会の教授の方々の労苦に対し、まずは称賛の言葉を捧げたいと思います。特に「現代科学と道徳的価値」の問題を今回の会議のテーマとして採択した準備委員会の決定と、それに呼応して世界各地から来られ、このテーマに関して発表し、討議された多くの学者の方々の積極的な熱意に対し、深甚なる謝意と敬意を表す次第です。
人類共同の福祉と科学の進路
皆様のこの画期的な集会を慶祝する意味で、しばしこのテーマと関連して、私が考える所感の一端を披瀝しようと思います。本会議において科学と道徳的価値の問題が扱われるようになったのは、今日の科学的現実がこの問題を緊急に扱わざるを得ない状況下に置かれているからだと思います。この問題について、今回の会議では十分に討議がなされたことと思います。
今まで目覚ましい発展を持続しながら、人類の福祉増進に大きく寄与した現代科学が、今日においては若干の副作用を呈していると見るのは、単に私だけの考えではないでしょう。今日の人間は、科学に対してその主体性を失いつつあり、自ら発展させた科学技術を統制する能力が次第に弱まりつつあるように、私には思えます。
今後このような状況が続くならば、近い将来に惨儋たる事態が現れるだろうと言い切ったとしても、それは過言ではありません。このように主体性が次第に失われていく理由について、私は次のように考えます。
すなわち、科学は価値観の問題を軽視せざるを得なかったと、そのように理解しています。月日の経過に伴い、科学が次第に分派的に流れ、ついには道徳や価値の問題を全面的に無視する傾向が現れ、科学に対する人間の主体性と主管性が弱化、または喪失し始めたのではないかと思われます。
人間が科学を発達させた動機には、様々なものがあると思いますが、究極的にはあくまでも、人間共同の福利、すなわち人類共同の平和と繁栄を実現することにあると見て間違いないでしょう。しかし、科学の領域が細分化され、その方法がより一層分析主義へと流れたために、人類共同の福利という価値の方向とは少し異なる方向に発展してきたのです。
人間が科学に期待したことは、「人類共同の福利」だったのであり、主体である人間の幸福でした。これに対して、科学が成し遂げた成果というのは、対象としての物質的環境の改善、また生活手段の開発だったのではないでしょうか。人間が望んだのは、主体の福祉でしたが、科学が成し遂げたのは、対象の改善だったのです。
したがって、私は、人間の要望と科学の成果との不一致から、人間の主体性の喪失がもたらされたのではないかと思います。科学では、生活環境と手段の改善、開発のような対象の問題解決に力を注ぎながらも、それと同時に、主体性の問題も共に扱うことが望ましいことであると言うことができます。物質的で分析的な方法とともに、精神的で統一的な方法を併用し、さらには、人間の尊厳性を肯定しながら、一定の道徳的価値観の土台の上で科学が扱われなければなりません。人間の尊厳性が尊重される科学的風土が造成されるとき、公害のような不安な問題は、未然に防止できるのです。ここに人間の本然の姿、すなわち人間の本性が問題になるのではないかと思います。
人間本然の姿と価値基準の設定
私は人間の姿を、心身の調和が取れた統一体と見ています。価値または善の目的を中心として、精神と肉身が調和の取れた統一を成し遂げている統一的存在が本然の人間なのです。
ですから、科学の本来の姿というのは、このような人間の二重性に似て、精神的側面と物質的側面の両面を統一的にもち合わせたものではないでしょうか。ここで精神的側面とは、道徳的価値の領域のことであり、物質的側面とは、物質の現実を扱う従来の科学の領域を意味します。したがって、これからの科学は、自然科学と社会科学の統一だけにとどまらず、道徳的価値観の問題までも扱う総合的な科学になることを、心から切に願うというのです。
このような科学は、「文化科学」と呼べるのではないでしょうか。このような科学が道徳的価値観を扱うためには、その価値基準の決定が問題になるのではないかと思います。しかし、一般的に価値基準というものは、時代や環境によって異なるものです。古代の価値基準と現代の価値基準とは異なり、東洋と西洋の価値基準が同一でないことが分かります。
したがって、人間共同の福祉のための価値基準を決定しようとすれば、時代と環境を超越した、普遍的で絶対的な要素を見つけ、それを基準として立てるしかありません。このような絶対的な基準の設定は、取りも直さず新しい道徳的価値観の樹立を意味すると言えるでしょう。
まずその絶対的基準の本質を考えるとすれば、それは正に家庭倫理の根幹になる「愛」です。なぜなら、家庭倫理の愛こそ、真の愛であり、隣人への愛、同胞への愛、そして人類愛の基本であると見るからです。またその愛はアガぺー的な愛であり、絶対的な愛なので、太陽が万物を一律的に照らすように、万人に真の喜びをあまねく与えることができ、古今東西を問わず不変であると見ることができるからです。
ここで私たちは、このような絶対的愛の主体である絶対者の存在を考えることができるでしょう。このような絶対者がいるとすれば、そのような存在を新しい価値観の基準として立てることが最も望ましいことではないでしょうか。
少なくとも私はそのように考えています。なぜならば、この絶対者は、決して観念的存在ではなく、歴史を通してそれ自体を現してきた実在的存在だからです。私たちは歴史上に数多くの宗教指導者や聖賢たちが、時や場所を変えて出現したことを知っています。彼らはみな、人間の良心と心情に訴え、隣人への愛を実践することを促しました。彼らの教えに従った民族や国家は平和と興隆を享受したのであり、従えなかった民族や国家は混乱と衰亡に陥ったのです。
今日も、多くの人たちは、この世界的な混乱の中で人類を救うことのできる現代の聖賢の出現を、意識的にも無意識的にも待望しています。このような事実は、愛の主体者である絶対者がいて、歴史や現実の背後で宗教指導者や聖賢たちを立て、彼らを通して自らの愛を現し、道徳的価値の世界を実現しようと計画していることを示していると言えるでしょう。
したがって、このような絶対者を全人類が共に認め、受け入れるならば、道徳的価値の世界の実現はそれほど難しくないと思います。ですから、このような絶対者を道徳的価値の基準として立てるのが最も望ましいと言えるでしょう。以上、私の所感の一端をお話しいたしました。
最後に、皆様が今回行われた立派な研究と真剣な討議が、人類の真の平和と福祉に大きく寄与する画期的な成果として現れることを心から祈りながら、これで私の話を終えようと思います。ありがとうございました。

Sunday May 08, 2022
平和経 第198話
Sunday May 08, 2022
Sunday May 08, 2022
神様に似るための愛の実践
それでは、精神改革運動は、どのように展開するのでしょうか。それはまず善の中心を確立しなければならず、そこには愛の中心が決定されることが絶対に必要です。なぜなら、善というのは、愛の実践だからです。
それでは、その愛の中心とは何でしょうか。それが正に神様なのです。宇宙生成以前からある唯一、永遠、不変の存在なのです。この愛というのは心情の流れです。内的な心情が外的に流れていくのが愛です。ですから、神様の本質は心情です。このような神様が、正に存在論的に扱った宇宙生成の根本原因である統一的存在だったのです。
この根本原因からの宇宙の生成こそが神様の宇宙創造だったということは言うまでもありません。それでは、神様は、どうして宇宙と人間を創造することができたのでしょうか。それは、神様は心情をもっているからです。心情があるところにおいてのみ生命が現れることができ、生命があるところに発展運動(創造)が起きるからです。その創造には必ず目的があるのですが、その理由は、本来心情というものが目的を指向するものだからです。
ですから、創造の目的は、心情を充足させる喜びにあると言わざるを得ません。そして、この喜びは、被造物、特に人間が神様に似た時に訪れるのです。ですから、神様の愛と創造性に似た人間と国(天国、福祉世界)が、神様の創造しようとされた目標だったのです。そのことは、人間の理想がそれを追求することを見ても知ることができます。理想とは、当然享有するようになっている世界を追求する熱望なのです。
人間が幸福の世界を常に理想として追求するのは、その幸福の世界が、正に人間がその中で生きるように計画された創造の世界であることを意味します。このような世界が正に神様の愛と創造性に似た世界であり、喜びの世界なのです。
ところが、今日まで科学の驚異的な発展によって、この世界は、神様の創造性に似るようにはなったのですが、神様の愛にはまだ似ることができずにいるのです。神様の愛に似るためには、愛を実践しなければならず、善の生活をしなければなりません。愛の実践が、すなわち善だからです。
ところが、善の生活のためには、愛の主体である神様を善の中心基準にしなければなりません。神様は中心であり、本質なので、現象の世界がいくら変化流転でも、神様の愛は永遠不滅であり、したがって神様を善の基準とすれば、ここに絶対的な価値観が確立されると同時に、永遠な幸福の世界が実現されるのです。
神様と人間が願う理想的な人間像と世界像
このように理想の世界は、創造の目的が実現されなければならない世界であり、神様に似なければならない世界なので、人間は、常に愛に満ち、調和し、平和な生活を願っているのであり、いつも新しいものを創造しながら環境を改善していくことを願っているのです。創造とは、単に製造だけを意味するのではなく、創意的な活動全
神様に似るための愛の実践
それでは、精神改革運動は、どのように展開するのでしょうか。それはまず善の中心を確立しなければならず、そこには愛の中心が決定されることが絶対に必要です。なぜなら、善というのは、愛の実践だからです。
それでは、その愛の中心とは何でしょうか。それが正に神様なのです。宇宙生成以前からある唯一、永遠、不変の存在なのです。この愛というのは心情の流れです。内的な心情が外的に流れていくのが愛です。ですから、神様の本質は心情です。このような神様が、正に存在論的に扱った宇宙生成の根本原因である統一的存在だったのです。
この根本原因からの宇宙の生成こそが神様の宇宙創造だったということは言うまでもありません。それでは、神様は、どうして宇宙と人間を創造することができたのでしょうか。それは、神様は心情をもっているからです。心情があるところにおいてのみ生命が現れることができ、生命があるところに発展運動(創造)が起きるからです。その創造には必ず目的があるのですが、その理由は、本来心情というものが目的を指向するものだからです。
ですから、創造の目的は、心情を充足させる喜びにあると言わざるを得ません。そして、この喜びは、被造物、特に人間が神様に似た時に訪れるのです。ですから、神様の愛と創造性に似た人間と国(天国、福祉世界)が、神様の創造しようとされた目標だったのです。そのことは、人間の理想がそれを追求することを見ても知ることができます。理想とは、当然享有するようになっている世界を追求する熱望なのです。
人間が幸福の世界を常に理想として追求するのは、その幸福の世界が、正に人間がその中で生きるように計画された創造の世界であることを意味します。このような世界が正に神様の愛と創造性に似た世界であり、喜びの世界なのです。
ところが、今日まで科学の驚異的な発展によって、この世界は、神様の創造性に似るようにはなったのですが、神様の愛にはまだ似ることができずにいるのです。神様の愛に似るためには、愛を実践しなければならず、善の生活をしなければなりません。愛の実践が、すなわち善だからです。
ところが、善の生活のためには、愛の主体である神様を善の中心基準にしなければなりません。神様は中心であり、本質なので、現象の世界がいくら変化流転でも、神様の愛は永遠不滅であり、したがって神様を善の基準とすれば、ここに絶対的な価値観が確立されると同時に、永遠な幸福の世界が実現されるのです。
神様と人間が願う理想的な人間像と世界像
このように理想の世界は、創造の目的が実現されなければならない世界であり、神様に似なければならない世界なので、人間は、常に愛に満ち、調和し、平和な生活を願っているのであり、いつも新しいものを創造しながら環境を改善していくことを願っているのです。創造とは、単に製造だけを意味するのではなく、
創意的な活動全体を意味するのであり、常に新しいものを創案し、計画し、改善し、生産するなど、あらゆる活動を意味します。
ところで、神様は統一的存在なので、人間も統一的でなければならず、社会生活も統一的でなければなりません。すなわち愛しながら創造し、創造しながら愛する統一的な人間、統一的な世界にならなければなりません。
今日まで人間は、輝かしい科学的発展を成し遂げることによって、創造的生活面においては神様に似たと言うことができますが、愛の生活においては、全く神様に似ることができずにおり、そのために悲しみと苦痛と不幸が継続しています。愛は調和なので、愛のないところに調和はあり得ず、調和のないところに平和や幸福はあり得ないので、ここから様々な悲惨な様相が起こるようになるのです。
こうして、神様も人間も、神様に似た理想的な生活、理想的な世界を願っているのです。これを言い換えれば、神様が願い、人間の本心が願う理想的な人間とは、創造的であり、なおかつ神様を中心とした愛を実践する善の人間です。また神様と人間が願う理想的な世界とは、環境を改善する創造的活動が継続されながら、個人と個人、国家と国家の間に愛が満ちあふれる大調和の統一世界なのです。このような新しいタイプの人間が新しい統一世界で生活できるようになってこそ、長い間人間を苦しめてきた一切の悲しみや苦痛、争いは永遠に跡形もなく消えていくのです。
万民共通の方向
このように本然の人間と世界は、神様に似た善の人間と善の世界であるにもかかわらず、今日、現実的な人間と現実的な世界は、神様に似ていない悪の人間、悪の世界になっています。
これは、人間と世界がまだ本来の姿になっていないからです。したがって、今日の人類を不安と混乱の中から救い出すためには、本然の人間の姿勢と世界の姿を回復して、これを現実に具現しなければならないのです。そのためには、善の絶対基準を探し立て、善の生活をしなければなりません。
善の基準とは、愛の中心である神様のことを意味します。今日、全人類が苦痛と混乱の現実を抜け出そうと激しく身もだえし、自由と平和を何よりも渇望しているのは、人類の本心が善の基準を探し求めており、愛の中心を探し求めていることを表しているのです。愛の中心を求めて、地上に永遠の幸福の世界を成し遂げようとすることが、万民共通の願いであり、方向なのです。
ここまで、神様と人間が願う世界は、創造的生活と愛の生活を営む統一世界であるということ、この世界ではじめて神様と万民の願いが実現するようになるということ、そして愛を実践するためには、愛の中心を探し立てなければならないということをお話ししました。この愛を実践するためには、ここに必ず規範が確定されなければなりません。なぜなら、愛の生活だけでは、決して調和をつくり出すことができないからです。愛の生活は秩序を必要とし、秩序のためには規範が要求されるのです。
規範とは、人間の行為を規制する理法であり、原理です。これが正に道徳であり、倫理なのです。したがって愛の生活をうまく営むためには、真の道徳と倫理を確立し、それを実践しなければなりません。これを言い換えるならば、統一世界に適用される道徳と倫理は、現代人にしっかりと守られるものでなくてはならないということです。過去の道徳や倫理が崩れてしまったのは、現代人の生活が物質主義へと流れたこともその原因ではありますが、その価値観が現代人の理性に合致していなかったからでもあります。ここに新しい価値観、新しい道徳、新しい倫理の確立が切実に要求されるのです。
完全な善の統一世界建設
それでは、新しい価値観は、どのように確立されるのでしょうか。それは過去のすべての思想と宗教の教理を統一できる一つの高次的な統一的思想体系によって、初めてその確立が可能なのです。過去のすべての思想と宗教はそれぞれ、それなりの価値観(倫理観)をもっており、それぞれ長所をもち、また今日でも有益な点があるにもかかわらず、新しく訪れる時代には適用されなかったので、今日ではほとんど捨てられたようになりました。したがって新しい価値観を確立するためには、過去の倫理観の長所をすべて生かしながら、同時に現代人の生理に合致する内容の価値観が立てられなければならないのですが、そのためには、過去のすべての思想と宗教の教理を統一した「統一思想」が出現しなければならないのです。
なぜなら、過去のすべての価値観と倫理観は、その時の思想や宗教を基盤にして確立されたものだからです。こうして「統一思想」による新しい道徳、新しい倫理が立てられるようになるとき、初めて完全な善の統一世界が建設されるようになるのです。このように統一世界の建設のために、新しい価値観を世界的に立てていくことが、正に世界道徳の啓蒙なのです。
結論として、「統一科学」の役割について一言お話ししようと思います。「統一科学」がかなり以前から、細分化された分科科学の真理を統一しようとする意図のもとに体系化されてきたことに対して、まず深い称賛を捧げる次第です。科学の細分化は、ちょうど機械を部品に分解するように、科学の専門化だけでは科学全体の統一的機能が麻痺してしまい、科学の使命を完全に遂行する上で支障を来すと言っても過言ではありません。
「統一思想」と一つになるべき「統一科学」
このことから、一部の先覚的科学者たちによって、「統一科学」の旗のもとに過去の多くの科学者たちが発展させた科学的真理が一つに総合的に統一され、一貫した一つの新しい哲学的な科学体系として整理されたことは、実に高く評価されるべき慶事と言わざるを得ません。それはあたかも、精神的な面において、現代的な新しい価値観を樹立するために過去のすべての思想と宗教を一つに統一する「統一思想」が出現したのと同じように歴史的な事件なのです。
既に先ほど繰り返し指摘したように、科学は人間の物質的生活を改善することがその本領なので、「統一科学」は実践面において、前よりも一層効果的に物質的生活の改善に寄与することが期待されます。しかし、本然の人間が精神と肉身の統一体であるように、社会生活も、精神と物質が統一された生活です。
理想世界も、愛と創造が統一された世界なので、ここで何度も明らかにしたように、物質的生活の改善だけでは、本当の幸福の世界は実現できません。したがって、不可避的に「統一科学」はその役割を完全に果たすために、「統一思想」と再び一つにならざるを得ないという結論が出るのです。
このような統一が成し遂げられるようになるとき、長い間の課題だった宗教と科学の統一が実現され、名実共に福祉世界、幸福の世界、善の統一世界が成し遂げられるのです。この時こそ、古い制度と思想は完全に消え、新しい制度と思想による理想的な統一世界が実現されるのです。ありがとうございました。

Sunday May 08, 2022
平和経 第197話
Sunday May 08, 2022
Sunday May 08, 2022
世界の道徳啓蒙に対する統一科学の任務
日付:一九七二年十一月二十六日
場所:アメリカ、ニューヨーク、ウォルドルフ•アストリア•ホテル
行事:第一回「科学の統一に関する国際会議」
人間は社会生活を営む中で、誰しもが幸せな生活を追求するようになります。幸福になりたいと思うのは、誰しもがもつ抑え難い人間の欲望であり、理想です。数千年の人類歴史において、このような理想をもたなかった人は一人もいないでしょう。
人間生活と幸福な世界
理想は常に現実とは相反するものであるにもかかわらず、人間は、現実生活の中で理想を実現するために不断の努力を傾けてきました。そのようにして、政治、経済、社会、宗教、科学など、人類文化の全般にわたって、目覚ましい発展が遂げられてきたのです。そうして今日、人間は、古代や中世に比べれば、比較にならないほどの高度な福祉社会を実現しました。
このような発展において決定的な役割を果たしたのは科学でした。科学の発達がなかったとすれば、今日のこの驚くべき繁栄は不可能だったでしょう。この事実は、科学者はみな、幸福な理想社会の実現を自らの使命としてきたことを意味します。
すなわち、科学者たちは、人間の夢を実現させようという熱い使命感をもって科学技術を発展させてきたことを意味するのです。たとえ科学者の研究成果が、時には一部の権力者の不義の目的に悪用されたことがあったとしても、科学者の基本精神だけは、常に人類の福祉社会の具現を目指していたのです。
科学の総合化、統一化の傾向
このように科学は、人類の夢を実現することに、その目的があります。ところが、過去において科学は、立派な発明がなされたとしても、民族的、国家的障壁に遮られ、それが直ちに人類全体の福祉に寄与することにはならなかった時がたびたびありました。科学文明にも国境がなければならないという主張も時としてあったのです。しかし、科学文明は本質的に、人類全体のものであるべきであって、ある特定の国家や陣営の専用物であってはならないのです。そのため、強い使命感をもつ科学者たちが、共同福祉の目的を妨害する不義の勢力に対しては、強力に抵抗したことを私たちは記憶しています。
科学者の中には、各自専門分野によって、時には当面の研究に没頭するあまり、人類福祉に貢献する精神を忘れてしまう科学者もいましたが、ほとんどの科学者たちが基本姿勢として、人類の平和と繁栄に寄与しようと努力してきたことは疑う余地がありません。
科学には様々な分野がありますが、そのどれを取ってみても、人類幸福の実現を目標にしない部門は一つもありません。物理学、化学、医学がそうであり、生物学、地質学、天文学がそうです。
もちろん過去数世紀の間に、科学はあまりにも分析的方法に傾き、多くの部分が専門化され、科学の細分化現象が起きたことは事実ですが、最近になって、総合的な方法によって細分化された知識を総合し、統一する、希望的な傾向が現れつつあります。「統一科学」は、その顕著な例と言えるでしょう。いずれにせよ、今日までの科学が、たとえ細分化現象を起こしたとしても、各部門がそれぞれの立場で、ひたすら福祉世界の実現という一致した目標、一致した方向を指向してきたことは事実であり、また今後もそれを指向していくことを信じて疑いません。
しかし、今日の世界情勢を見ると、非常に嘆かざるを得ない現象が続いています。それは目覚ましい科学の発展と驚くべき経済の繁栄とは裏腹に、いまだに不幸な事態が世界の随所で起きているという事実です。
善の世界と幸福の世界
科学者たちのかくも切実な念願と努力にもかかわらず、いまだに発展途上国では貧困と文盲と疾病が、そして国際間には緊張と戦争と敵対行為が続いており、人類は華やかに発展した文化の陰で、依然として悲しみと不安と苦痛の生活をしているのです。多くの指導者がこの不幸を取り除き、平和と安定を樹立しようと努力しているにもかかわらず、ただ「平和」の言葉だけが世界にあふれているばかりで、人類は日に日に不安と苦悩と危機意識の中に陥りつつあるのです。これはいったい何が原因なのでしょうか。
それは、人類の行動を規制してきた従来の価値観が崩れたからです。倫理と道徳がその機能を喪失したからであり、善の基準が消え失せてしまったからです。西欧社会における神中心のキリスト教の価値観、東洋社会における天道思想中心の儒教の価値観など、従来の人間の精神を指導してきた価値観は、すべてその機能を喪失してしまいました。これが今日、科学者たちの熱意に満ちた努力にもかかわらず、人類の不幸が消えない根本原因なのです。
このような事実は、何を意味しているのでしょうか。それは、科学者たちの念願が実現されるには、必ず先に善の世界が実現されなければならないことを意味するのです。善の世界とは、価値観が確立された世界のことをいいます。それは道徳の世界であり、宗教の世界です。しかし、この価値観は全く新しいものでなければならないでしょう。現代有識者の実証的で論理的な精神を指導できる新しい価値観でなければなりません。
ここに、今日の科学者たちは、また一つの使命を担わなければならないという結論に至りました。物質的生活の向上だけを試みてきた自然科学だけでは、人類の真の幸福を保障することが難しくなったのであり、人間の精神を改革する作業までも、科学者が遂行しなければならなくなりました。それでは、その理由について説明することにします。
人間をはじめとした万物は、すべて質料的な側面と形相的な側面とを兼ね備えた統一的存在であることは、誰も否定できないでしょう。人間は心と体の統一体であり、動物は本能と体、植物は生命と物質、そして無機物は作用と物質の統一体です。ところが、存在論的に見るならば、宇宙は結果の世界であって、そこには必ずその究極の原因がなければならないとしたときに、唯物論はそれを物質であると主張し、唯心論、すなわち観念論はそれを精神であると主張しています。
統一的原因と統一的結果
しかし、結果の世界がそのような統一体であることから推論すると、その原因も、質料と形相の二つの要素を統一的にもち合わせている一元的存在でなければならないのです。一元的で統一的な原因であってこそ、そこから統一的な結果の世界が生じるのであり、また統一的結果には、必ず統一的で一元的な存在がその原因にならなければならないのです。
したがって、宇宙の根本原因を物質としてのみ考える唯物論は誤りであると言わざるを得ません。その原因となるものは、決して物質ではなく、それより先んじている非物質なのです。ですから人間というのは、その統一的原因から生じた統一的存在であって、人間を物質的存在とだけ見てはならず、また精神的存在とだけ見てもいけません。
したがって人間生活を向上させるにしても、肉身の物質的生活だけを改善しては完全な幸福は実現されないのであり、物質と精神の両面の生活を統一的に同時に改善していくときに、初めて真の幸福が到来するようになるのです。
今日までの科学は、その担当した分野が物質的な領域だったために、特に物質的生活の改善にばかり力を注いできたのです。ですから、残念ながら、科学者たちの切実な念願と熱心な努力にもかかわらず、人類はいまだに不安と混乱の中から抜け出すことができずにいるのです。ここでやむを得ず、科学者たちは、人類の真の福祉のために、そしてこれまで成し遂げてきたその高貴な努力の成果を守護するためにも、精神生活の改革運動に参加しなければならないという結論に至りました。精神生活の改革というのは、新しい価値観を確立することによって、善の世界を建設することであり、新しい道徳社会を建設することです。

Sunday May 08, 2022
平和経 第196話
Sunday May 08, 2022
Sunday May 08, 2022
皆様は原理を学んで知っているかもしれませんが、生心とは何でしょうか。生心とは、心と霊が合わさって、新しく一つの目的に向かって動くものです。神様を中心として私たちの良心と一つになり、理想的な自分をつくり出せる動機的な心です。ですから、その生心がなければ、霊界と真の愛と関係を結べる、自らの根源を探し出せないのです。生心が私に生じれば、体も喜び、すべてそれについていきます。自動的にこれが一つになるのです。今に至るまで、人間にとって一番問題となることは、体と心が互いに離れているということです。霊的な力が私に臨み、生心的な起源さえできれば、心と体が自然に一つになるのです。そのような根本から革命が起こり、根本から是正する根源を発見できない限り、私たちは理想を訪ねていく道理がありません。動機があってこそ結果が出てきます。宗教は生心を啓発しようということです。生心を中心として、数多くの宗教があります。ありとあらゆる形態が、すべてあるのです。
神様は、尊厳あるお方です。霊界と肉界は一体にならなければなりません。真の愛が現れなかったために、霊界と肉界が統一できなかったのであり、真の愛が現れなかったために、心と体が分かれたのであり、真の愛が立たなかったために、宗教と政治が分かれたのです。真の愛を中心として、すべて一つになるのです。個人、家庭、社会、国家、世界、天宙が、すべて連結されます。私たちの手で、そのようにしなければなりません。そのようにしなければ、本然の天上天国と地上天国を相続できないのです。霊界と肉界の一致をどのように成し遂げるのでしょうか。真の愛によって一つにするのです。
世界人類の中で、霊界を知らない人は数多くいます。神様を信じる人々も、「霊界はあるだろうか、神様はいらっしゃるだろうか」と言いながら、はっきり分からずにいるのです。しかし、霊界はあります。世の中のお金持ちがこれから幸福の園を造ろうというとき、自分のすべての財産をつぎ込んでも造りたい気持ちがあるのと同じように、天地を創造された神様は、御自身の住む所をどのようにお造りになったのでしょうか。霊界は、どの部分を探して凝視しても、千年眺めても飽きない美しい世界です。想像を絶しています。世界で最も良いものがあるとしても、霊界に比べれば何でもありません。霊界の一角にもなれません。ですから欲しいのは、この地上ではありません。先生に言わせれば、この地上は神様の願いにかなっていないので、帰りたいのです。
一般の人の大部分は、今も霊界を考えません。「生まれたので、ただ父母に侍って家庭で暮らしている。このように生まれたから、このように生きる」と思って生きています。そのように生きるすべての生活の中心は何でしょうか。どのように食べ、どのように暮らすかということです。ですから、一番重要なことを衣食住と捉えています。どのように住むかという問題、どのように食べるかという問題、どのように装って暮らすかという問題、これが中心です。もちろんそこには、人間関係において人倫と道徳があって向上する、互いが発展し互いが喜べる内容がありますが、その道徳基準が異なり、民族が異なり、国家が異なり、世界のすべての文化背景の違いによって、生活基準や社会制度がすべて異なるのです。このように見ると人間が探し出すべき本然の基準、すなわち創造本然の基準と今日、私たちが暮らしている生活の標準として立てていく人倫と道徳の基準の間には、途方もない差があります。これが一つに収拾されずにいるのです。
本然の世界に基づいて、私たちが生まれ、生きてから、行くべき所はどこでしょうか。これがはっきりしていません。ですから一般の人たちは、霊界があるのかないのか、神様がいるのかいないのか、分からずにいるのです。しかし、「統一原理」を学んだ人たちは、霊界が確実にあることを知っています。信じているだけではなく、知っているのです。なぜでしょうか。多くの体験を通じて知るのです。今日、統一教会が世界的な基盤を形成するに至った背後を調べてみるとき、多くの体験過程を経てきたというのです。そのため、霊界がないとは言えない立場にいる人々が、「統一原理」を知る人々です。
「統一原理」を知っている人々は、どのような道を行くべきでしょうか。神様が願う道に従っていかなければなりません。天意の道に従っていくのです。天意とは何でしょうか。個人が行くべき天意の道があり、家庭が行くべき天意の道があります。そして、社会、国家、世界、霊界が行くべき天意の道があります。霊界は、間違いなくあるのです。
神様がいて、霊界があるなら、どのようになるでしょうか。ある人は、「神様がいるとしても私たちとは関係ない」と思うかもしれませんが、それは誤った考えです。「霊界があるとしても私とは関係ない」と言うのは、まるで「私は家庭の一員であって、国は必要なく、世界も必要ない」と言うのと同じです。そのため、より大きい神様がいて、より大きい霊界があるとすれば、より大きいものと関係を結ぶことを、私は願うのです。関係しているだけでなく、関係して何をすべきなのでしょうか。一つにならなければなりません。一つの目的に向かって行かなければならないのです。
使徒パウロが霊界の第三の天(コリントII一二•二)を見て体験したことが、彼にとって根気強く宣教活動を続けることができた原動力になりました。そのような体験がなければなりません。先生もそれと同じです。
先生は、死を恐れません。何がそのようにしたのでしょうか。愛です。いくら獄中に放り込まれても、先生は消化できます。ですから今日、このように反対する環境を消化して、屈服させてきたのです。私の手ですべて屈服させたのです。
霊界の創造
霊界は天使世界に相当します。そして、今日の世の中は、アダムとエバのような立場にあります。ところで、霊界は、アダム、エバを造る前に造られました。霊界が神様のみ旨に反対することによってサタン世界が生じたので、霊界が神様のみ旨を歓迎してこそ、その世界が復帰されるのです。また、霊界を屈服させなければ、地上世界に主が来られません。それで、統一教会が今まで霊界を屈服させてきたので、霊界は統一教会に協助しなければならないのです。
霊界は、皆様の体の中にもあります。ですから、皆様は常に霊界を背負って歩き、連れて歩いているのです。したがって、逃げることはできません。
霊界はあります。霊界はこの世界のためにあるのです。また、この世界は永遠の世界のためにあります。「世の中のどこに神様がいて、霊界がどこにあるのか」と言うかもしれませんが、神様のいらっしゃる所が霊界です。
私たちの人生が七、八十年で終わるとすれば特に問題はありませんが、永遠の生を中心として生きていくので深刻です。それでは、霊界があると言うとき、死後に霊界に行くとすれば、何をもって行くのでしょうか。真の愛を実践する生活をしなければ、霊界と関係を結べません。霊界は広大な世界です。皆様は知りませんが、広大無辺な世界です。霊界という所は、愛の電気で満ちあふれた世界です。愛の電気をもってすれば、できないことがありません。私たちの意識構造をもって治めることができる圏内が霊界だと言えます。霊界は永遠の要素を願う所です。霊界は、すべてのものが愛で満ちあふれた調和の世界です。ですから、愛のボタンを押せば、宇宙が作動するのです。
地上天国はどのような所でしょうか。すべての愛の電球に、明かりをともせる所です。それでは、天上天国はどのような所でしょうか。愛の電球に、明かりを永遠にともせる所が天上天国です。そのため、皆様が愛の心さえ抱いて、愛の綱さえ引けば、すべて引っ張られてくるのです。後ろに引けば後ろに行き、横に引けば横に行きます。思いどおりに操縦できるのです。嫌でそのようにするのではなく、自動的にそのようになるというのです。ですから、霊界という所は愛の空気で満ちあふれた所です。愛の神様が愛の心で、世界人類に対して一度にすべて食べさせて喜ばせたいと思って、「御飯よ、出てきなさい!」と言えば、出てくるのです。
霊界では、愛の食べ物を食べます。互いを見るのも、愛の目で見るのです。そして、言い表せないほど神秘的な所です。何かを聞いても、ひたすら聞き続けたいと思う、眠気や疲れという観念がない所です。今日、人間は何であってもすべて、愛と関係を結ぼうとします。なぜ、愛と関係を結ぼうとするのでしょうか。霊界に拍子を合わせるためです。そのようになっているので、そこに応じるしかないのが人間という存在です。その位置を離れられないのです。
皆様が夢で先生に会う現象は、神様の愛の波長を通して現れるのです。そのためには、自分があってはいけません。自分を犠牲にしなさいというのです。真空状態をつくらなければなりません。真空状態になったあとには、共鳴圏をつくり、電気抵抗が最も少ない黄金にならなければなりません。黄金というのは、他の要素が混じっていません。純粋そのままです。

Saturday May 07, 2022
平和経 第195話
Saturday May 07, 2022
Saturday May 07, 2022
霊界と肉界の中心は神様の愛
皆様は霊界のことが、相当気にかかるでしょう。世界には、数多くの宗教がありますが、その宗教が行く道は、霊界と関係を結んで永生する世界、永遠に生きる世界、すなわち神様と共に暮らす世界を訪ねていくのです。そのような世界が、宗教の目的地です。しかし今日、宗教はどのように変わったでしょうか。だんだんと堕落して、「宗教は、弱者が信じるものだ。私たち人間に必要ないものだ。それは道義的な一つの表象として、人間が捏造したものだ」と、このように結論を下す時代に入りました。宗教の中心になるキリスト教だけを見ても、そのようになりました。アメリカは全世界のキリスト教国家の代表国ですが、そのようなアメリカの家庭で育った人々が宗教を離れ、今に至るまで自分勝手に暮らしているのです。
世界の中心であり、すべての理想の中心が神様ですが、その神様がいらっしゃる霊界を中心として理想を描いたキリスト教を信じていたのに、なぜ離れるのでしょうか。第一の原因は、霊界があることをはっきりと知らなかったからです。知能をもった比較能力のある人間なので、良い所があれば悪い所を捨てて、そこに行くようになっており、より次元の高い価値のある所があれば、そこに行くようになっています。それが人間の本性です。人間は、霊界の実在をはっきりと知らなければなりません。その次に、第二の原因は、神様を知らなかったからです。堕落によって神様との関係が断絶し、孤児として生きてきました。そして、第三の原因は、霊界の中心となり、神様の中心となる愛によって結ばれることを知らなかったからです。
この三つが分からなかったというのです。たとえ神様を知り、霊界を知ったとしても、愛を中心とした世界であることが分からなかったのです。愛がある所では、上がっても良く、下がっても良く、真ん中にいても良いというのです。愛する夫が自分より高いといって嫌がったり、愛する妻が自分より低いといって、それを僧んだりしますか。一つになれば思いどおりに、低い所から高い所に上がることもでき、高い所から低い所へ下りてくることもでき、中間にいることもでき、どこにでも行けるのです。制裁されることはありません。それで世の中では、「この世界は、一つの世界でなければならない。統一の世界でなければならない。平和の世界でなければならない」ということをよく言うのです。
霊界と肉界、霊的な存在と肉的な存在も同じです。ここは神様の愛、神様が中心になっています。堕落した人間は、神様が中心になっていません。人間は心と体から成り立っていますが、心と霊界は違います。次元が違うというのです。
霊界と肉界とは、神様の愛を中心として語るものです。したがって、霊界と肉界が一つになるためには、必ず神様が介在しなければなりません。神様の愛が介在しなければ、正しく、霊界とは通じないのです。神様を中心として、霊界というものが連結されるのです。「自分の心も霊ではないか」と考えるかもしれませんが、それは混同しています。心は霊界ではありません。堕落したために、心は霊的世界と関係を結んでいないのです。骨のない人のようなものが、堕落した人間の心であると考えれば、実感が湧くでしょう。骨のない人のような形態が、堕落した人間の心だというのです。
霊人体を見れば、霊人体にも体の要素があり、心の要素があります。その霊人体の心のようなものが霊的世界です。それは、必ず神様と関係を結んでいます。ですから、神様と関係を結ばなければ、霊人体の生心は啓発されないのです。霊と心は違うというのです。神様が離れているのです。神様御自身は人の心と関係をもてず、直接主管することはできません。人間の心は、ああなったりこうなったりしながら変わります。しかし、霊的世界や霊的存在は変わりません。それは永遠に一つの目標を立てて、たゆまずに進むのです。なぜでしょうか。神様の側に立っているからです。心は人間に属しています。行ったり来たりする人間にあるというのです。

Saturday May 07, 2022
平和経 第194話
Saturday May 07, 2022
Saturday May 07, 2022
第五章 有形実体世界と無形実体世界
人生路程に対する祈祷文
愛するお父様、天が辱めを受けることがあってはならないと思い、幼い頃から今まで闘ってきた私を守ってくださったお父様の恩賜に、感謝申し上げます。この地において何が良いといっても、お父様が運行される本然の心情に連結されたこと以上に貴い基準がないことを知っております。その立場を限りなく慕わなければなりません。お父様の真の愛に触れた人は、世の中の万事を捨てたとしても未練がない立場にあることを、私たちは知らなければなりません。第三の生の自由権限を手にできる解放児として出生するその日を、今日、この地上世界において準備しなければなりません。
愛するお父様、私たちが新しい春を迎えるためには、私の生命が同化される関係を備え、そこに完全に吸収されなければならないということを知っております。そうしてこそ、初めて春を迎え、花を咲かすことができるという事実を知らなければなりません。「一生において、あるひととき春を迎えたことがあるか」と聞かれ、「迎えたことがある」と答えられない、哀れな霊になってはいけません。
愛するお父様、お父様をお迎えし、慎ましく敬拝を捧げたいという思いのない人は、永遠なあの世でお父様と関係を結べないことが分かるようにしてください。今、私たちが心の門を開き、お父様の心情を感じられるようにしてくださり、今日、私たちの心からあふれ出るお父様のみ声を聞いて、失った自分自身を探し出せるようにしてください。お父様が私一人を探すために、私の背後であらゆる艱難と苦労の歴史過程を経てきたことを感じ、自ら頭を垂れる私たちとなれるよう、許諾してください!
死に対する理解
この地上には父母がいて、師がいて、親戚がいます。この地には、そのような関係を結んでいける道がありますが、霊界にはそのようなものがありません。霊界では、誰もが神様を中心として、全体のために生きるのです。位置がすべて区別されています。ですから、上にいる人が下に来ることもできず、下にいる人が上に行くことも難しいのです。本来は、地上で完成してこそ霊界に行けるようになっています。一度あの世に入れば、終わりです。いずれにせよ、人間は死ぬのです。
生涯の路程は、あまりにも短いのです。一生はあまりにも短いのです。人の寿命が八十年だとすると、あまりにも短いというのです。霊界の時間では、すなわち永遠の世界の時間で考えれば、八時間にもなりません。ですから、真の愛の力は偉大です。真の愛は時間と空間を超越し、私たちが認識できないほど速く作用します。
間違いなく霊界はあります。間違いなく霊界は実在し、私たち人間は神様から生まれたので、いずれ神様がおられる霊界に帰らざるを得ません。韓国語の中でおもしろいのが、「トラガンダ(帰る、亡くなる)」という言葉です。どこに帰るのでしょうか。墓地に行くのは、帰ることではありません。出発した故郷に帰るということです。その出発地は、墓地ではないというのです。果てしなく遠い歴史の起源を越えて、帰るという意味です。
人間が帰る(亡くなる)ということは、韓国人として生まれて、韓国人として帰る(亡くなる)ことを言うのではありません。韓国人として死にましたが、韓国人として帰るその道ではないというのです。私たち人類の先祖の根源の世界に帰るという意味です。それは何を意味するのでしょうか。創造主がいらっしゃるのであれば、その創造主がいらっしゃる所に帰るということです。そこから出発したので、そこに帰るというのです。
宇宙は循環作用をします。山に積もっていた雪が溶ければ、小さな沢を通じて流れていき、多くの支流を通じて大海に流れ込みます。大海に入れば、それが水蒸気になって、再び帰るのです。循環運動をします。同じように、帰るとすれば、どこに帰るのでしょうか。より高くなる所に、より良くなる所に帰ることを願うのです。誰も小さくなることは願いません。しかし、すべての自然界の運動する力というものは、作用すれば小さくなるようになっています。作用すれば、だんだん小さくなるというのです。私たちが何かを転がしてみても、それが永遠に転がるのではありません。早く転がっていた物も、だんだん遅くなり停止するようになるのです。
私たちはこの世に暮らしていますが、この世だけがあるのではなく、霊界があります。ところが、この地上界と霊界は二つの世界ではなく、一つの世界として連結されています。それでは、私たちが行くべき所、私たちが行って暮らすべき所とは、どこでしょうか。もちろん私たちは、肉身生活をしながらこの地にいますが、永遠の世界に向かっているのです。人は誰しも、世の中に生まれて、十代、二十代、三十代、中年、壮年、老年時代を経ていきます。青春時代を過ごして壮年時代に入れば、一つの峠を越えて、その次には老年時代に入るのです。このように、沈む太陽のように一生を終えるのです。しかし、霊界があるという事実を知る人々は、一生というものがわずかな間であり、死んだのちに私たちが迎えるべき世界は永遠であるということを知っています。そのため、一生は永遠の世界のために準備する期間であることを知って、準備する生活をするのです。
「死」という単語を使った目的は、人生の意味を知るためです。それでは、人生の価値は誰がよく知っているのでしょうか。ただ生きようとする人には分かりません。死の境地に入って、生死の岐路で天にすがり、人生の価値を判断して極めようとした人でなければ分からないのです。
人間は、死を歓迎すべきでしょうか、歓迎してはならないでしょうか。歓迎すべきです。死ぬ時に、何のために死ぬのかといえば、「神様の真の愛のために死ぬ」と言わなければなりません。それゆえ、肉身を脱ぐのは、無限な神様の愛の活動圏に私が同参するためであり、神様の愛の世界のためなのです。
死ぬことは、神様の愛の中で再び生まれることですが、人間世界では「ああ、死ぬ!」と大騒ぎします。制限された愛の圏内から、無制限の愛の圏内に突入できる喜びを迎えられる瞬間が、死ぬ瞬間です。ですから、死ぬ瞬間は第二の出生の瞬間です。それでは、神様は皆様の肉身が生まれた日を喜ぶでしょうか、第二の無限世界の愛のために活動する息子、娘として生まれるその瞬間を喜ぶでしょうか。なぜこのような話をするのか分かりますか。皆様が死の恐怖から解放されなければ、神様と関係を結べないからです。
三段階の人生行路
人の一生は、蘇生、長成、完成の三段階を経ていきます。腹中の水の世界、地上の陸地世界、天上の空中世界で暮らすのです。言い換えれば、母親の腹中の水の時代、地上に生まれて生きる百年の地の時代、飛んでいく空中の霊界時代、このように三時代を経るのです。
人は生まれるとき、水の中で生まれます。腹中時代は、水中時代です。胎児が母親の胎中にいるときは、水の中にいます。水の中で暮らすために、水を飲んでは吐き出さなければなりません。それで胎児はホースを母親のおなかに連結して生きるのです。胎児は、どこから栄養分を供給されますか。へそから供給されます。へそが口なのです。ですから、それをぞんざいに扱ってはいけません。「へそよ、お前は昔、苦労した」と言ってたたいてあげなさいというのです。へそをたくさんたたいてあげれば、健康になります。そのように運動しなさいというのです。へその運動をたくさんすれば、健康になります。いくら寒い部屋で寝るとしても、へそさえきちんと覆いかぶせて寝れば、下痢しません。
腹中での皆様の口はへそです。その次の段階の口は何でしょうか。皆様が食べ物を食べる口です。口がついている場所が上がるのです。それでは、へそについているへその緒を、どのようにすべきでしょうか。切ってしまわなければなりません。同じことです。
空気の世界では、霊人体が肉身に宿って胎児のように成長していくのです。そうして肉身が老いれば、それを捨てて霊人体が出ていくのです。ちょうど胎児が生まれて、父母の前に愛の対象となるように、霊人体が霊的父である永遠の神様と相対できる人として、再び愛で呼吸する世界に生まれなければならないのが、原理原則です。
父母と愛し合う地上世界に生まれるのと同じように、霊的な無限の世界の父母であられる神様と愛を分かち合える霊界に、再び生まれなければなりません。腹中から出て、何を発展させるのでしょうか。それは愛です。愛の要素を受けるというのです。だから御飯だけを食べていてはいけません。御飯だけを食べているのでは生きているとは言えません。第二段階の人生を、愛を中心に生きなければなりません。したがって、地上生活では何を満たすべきでしょうか。この期間には、新しい愛の人格を形成しなければなりません。
この地上で、皆様に必要なものは愛です。母と父の愛を受けられなかった子女を、なぜ、孤児と言うのでしょうか。霊界と永遠に連結させる愛を受けられずに生きるからです。それで、独身生活をする人を、「かわいそうだ」と言うのです。
死ぬというのは、第二の呼吸をしていた肉体に連結された器官を壊して、霊界における愛の要素を受け継ぐことです。愛は見えません。父母の愛、夫婦の愛を中心として、一つの内的な構造が育っているというのです。ですから、神様の法則どおりに胎内で正常な赤ん坊として育つのと同じように、地上でも天理に従ってしっかりと育たなければなりません。
昆虫類の中には、三段階の世界を経るものがたくさんいます。昆虫と言えば大概、羽があります。昆虫も水と陸地と空中で暮らすのですが、万物の霊長である私たち人間には羽があるでしょうか。次元の高い羽があるというのです。肉身の死は、第二の出生の恵みの関門です。死ぬということはどういうことでしょうか。地上生活は、空気中において「胎中で泳ぎ回って暮らすこと」と同じです。空気のふろしきの中で暮らしているのです。死ぬというのは特別なことではなく、霊界での第三の人生として出生することなのです。その瞬間が、死ぬ時間です。

Friday May 06, 2022
平和経 第193話
Friday May 06, 2022
Friday May 06, 2022
第四章 人生路程
幼児期と三段階秩序
アダム、エバを、神様はどのように造ったのでしょうか。土でこねて造ったのなら、どのような土で造ったのでしょうか。どこから出発したのでしょうか。どこから始まったのかというのです。アダムとエバを、最初から成長した人間として造ったとは考えられません。赤ん坊から造ったのです。神様は、胎児を宿した母親がおなかの中で育てるのと同じ過程を経て造ったという論理を立てなければ、このすべての三段階の秩序を通じた存在の形成というものを説明する道理がありません。それで、アダムとエバにも幼児期があったというのです。その次に長成期がありました。その次に完成期があったのです。これは天理です。幼児期とは、どのような期間だったのでしょうか。無形の神様が、無形の世界から有形の世界へ行く過程で、赤ん坊という存在を抱いて育てたという論理から始めなければなりません。
私たちの人生の道
私たちが暮らしている社会、国家、世界は、自分の志に符号する環境になっていないので、あらゆる苦衷が生じており、善悪の分岐点が食い違っています。百人なら百人、各々自分なりの一日の生活を営むために環境の中で苦闘しており、志を押して進めているのです。
ですから、朝に計画した一日の活動に対して、誰も自信をもてないということを、私たちは一日の生活の中でよく感じています。その上、その環境の範囲が大きければ大きいほど、自分の一日の生活を勝利として結果づけるためには、それに比例して決意と推進力をもたなければなりません。そのようにしなければ、その日が勝利の日になり得ないのです。そのような一日一日が加わってひと月になるのであり、ひと月ひと月が加わって一年になるのです。
そのひと月も、私たちが計画したとおりに生きられる環境になっていません。私たちがひと月の勝利をもたらすためには、そのひと月の環境に備わった複雑なすべての事情、すべての条件を打破できる推進力と決意がなければなりません。それがなければ、ひと月の計画を勝利で終えることができないのです。一年を押し進めるためには、三百六十五日を克服できる闘志力、あるいは推進力を備えなければなりません。そのようにしなければ、一年を勝利で飾れません。このような一年に十年が加わり、二十年、あるいは三十年が加わった日々を過ごしているのが、私たちの人生の道です。
今日、この地に暮らしている人間は、時間性から抜け出せません。人類歴史を見ても同じです。個人、家庭、氏族、民族、国家、世界も、そのような時間圏内で動いています。人が生きていくのに、必ず達成すべき目的があります。その目的を中心として、十年、二十年、三十年、七十年、一生の間、行くべきなのです。目的が大きければ大きいほど、内的にもっと強く決意しなければなりません。そのようにしなければ、その目的に到達できません。時間という過程を通して、その目的を凌駕する内的な決意を続けない限り、その目的を達成できないというのです。
私たちが訪ねるべき本郷
皆様は、霊界の事実が分からないかもしれませんが、先生は神様の特別な恵沢を受けて、未知の世界についてよく知っています。その世界の根本を掘り返してみると原則は簡単でした。その世界は、神様の天地原則である「ために生きる生活」をした人だけが行く所です。そのような内容で形成された世界が理想天国です。そこが、私たち人間の訪ねるべき本郷です。
私たちは堕落した人生として、本郷から追放された人間なので、本郷の地に向かって帰るべき運命にあります。しかしそこは、人間自体では帰ることができないので、神様は人間が帰れる道を歴史過程に設定せざるを得ません。それで、その民族の文化背景、風習、あるいは伝統に従って、数多くの宗教を立てて収拾してきたのです。そのように収拾するための訓練場として立てたのが宗教です。ですから宗教は、本郷の地に入る資格をもつ人を錬磨する訓練場です。
東西南北、四方の文化背景によって、高い所に前進できる一つの統一された宗教世界へと導いてきています。そのような本郷の地に導かなければならない宗教なので、宗教は「ために生きなさい」ということを教えざるを得ません。ですから、高次的な宗教であるほど、「ために生きなければならない」という原則を強調しなければならないので、「温柔、謙遜であれ」と言い、「多くの人を高め、彼らのために生きよ」とし、「犠牲になり奉仕しなさい」と教えるのです。その理由は、その国の法度に合う訓練をしなければならないからです。
人生の行くべき道とは何でしょうか。神様の愛を占領することが、人生の行くべき道です。神様の愛を占領することが、人生の行くべき最高の終着点です。この道は、男性も行かなければならず、女性も行かなければなりません。すべての人が行くべきなのです。人生の行くべき道は、無限な愛の神様を探すことです。十回でも百回でも、死の峠を経てでも、たとえ死んででも、絶えず神様の愛を探すのが、人生において行くべき最高の道です。欲望の果てはどこまででしょうか。神様の愛を占領することです。神様を占領したといっても、その中にあるもっと貴い愛を占領できなければ、神様は自分の神様ではありません。ですから、神様の愛を占領しなければなりません。
愛さえ占領すれば、神様はいらっしゃらなくても構わないというのです。神様のものが私のものであり、私のものが神様のものになるとき、初めて内外が一つになります。そのような国が、上下の等級のない理想の本国になるのです。そのような場所に横になれば、天下にあるすべての存在で良く見えないものがなく、天下にあるすべての存在で自分のために存在しないものがないと感じられるのです。そのようなものが神様の愛なので、今日、人間が行くべき天上世界、すなわち天国は、愛で満ちあふれた所です。
誤った出生(しゅっしょう)の基準
世の中の人々は、自分自身が高貴な人だと言っていても、いくら博士だと言っていても、自分の出生が誤ったことを知らずにいます。神様の怨讐であるサタンの愛、生命、血統をもって生まれたことを知らないというのです。重要な問題です。堕落によって人間は、サタンの愛から生まれたのです。サタンの愛がその父母にまでつながってきました。母の生命、父の生命にサタンの血が流れており、その血が今日、自分につながってきたのです。そのような結実体が、正に自分です。ですから皆様は、サタンの血統に属しているのです。言わば、皆様の血管を通ってサタンの血が流れているというのです。ですから、自動的にサタンは自分の理想的な実を結ぶのであり、神様はそのような男性と女性を本然の純粋な完成人間として救おうとされるのです。
皆様は、サタンの愛から出発しました。サタンの血統をもって生まれたのです。ですから、出発が誤ったというのです。出発が誤ったので、再び帰らなければなりません。それでは、帰るには帰るのですが、どこに行くベきでしょうか。堕落前に帰らなければなりません。偽りの父母によって始まったので、真の父母によって再び始めなければなりません。ですから、どれほど深刻でしょうか。自分が神様の愛と神様の生命と神様の血統を引き継がなければならないのです。それで、祝福を受けるとき、血統転換式をするのです。それを、自分の生命よりもっと信じなければなりません。
統一教会の一つの礼式だといって、ただ一般の宗教儀式と同じに考えてはいけません。これは、死んだ立場からよみがえらせる注射薬と同じです。解毒注射です。私たちの先祖が誤ったのです。このために、歴史を経てきながら数多くの人々が犠牲になりました。これを知る私たちは、再びその道を行くことはできません。絶対に行けないのです。不倫の愛で堕落したことにより、歴史を通して受けたその代価が、途方もなかったというのです。個人、家庭、社会、国家、世界に及ぼした影響が、途方もなかったのです。
生涯の基準
ここにおける人間の「生涯」とは、永遠の生涯です。それは地上界のことだけを言うのではありません。霊界においても生きている永遠の生涯です。私という存在は、神様の愛の対象として造られました。絶対的で主体的な神様の対象が、正に私です。神様の愛の相対が、私だというのです。神様が御自身よりもっと貴く思うのが、真の愛の概念です。神様は絶対的で、永遠な生命の中心です。神様の理想は永遠なのですが、その理想の中心が、正に真の愛です。その愛の相対が私です。
愛の属性は、主体と対象を一つにすることです。それは、国家をも一つにします。それゆえ愛において、どのような場にも同参でき、どこでもついていけるのです。愛によってすべて相続できます。神様の心情までもすべて相続するのです。先生は悲惨な過程を経てこれを発見することにより、その基盤の上に立つようになりました。これは何ものとも換えることはできず、崇高で、尊厳ある高貴なものです。驚くべき恩賜です。そのため、神様と同じ立場に立つのです。永遠な真の愛の場に同参するのです。
霊界は、制限された地球星とは次元が違います。制限された所では自由に動けませんが、霊界は次元が高い世界なので、何でもできる所です。時間を飛び越えることができます。愛を中心として何でも願いさえすれば、いつでもどこでも、すべて得られるのです。私たちは本来、永生体として造られました。真の愛を中心とした対象体である私は、永遠の生命体だというのです。ですから、霊界に行けば自由です。そのためには、生涯の基準として、第一は善悪の基準が重要です。善悪の基準が第一であり、第二は本然の出発点に返ることであり、第三は永生問題です。

Tuesday May 03, 2022
平和経 第192話
Tuesday May 03, 2022
Tuesday May 03, 2022
愛は極めて自然なところで形成される
先生が幼かった頃、ある日、鳥を一つがい捕まえて、二羽のくちばしを合わせようとしたことがあります。二羽が口づけするのを見るために、垣根を造り、餌もあげながら観察しました。互いに愛し合い、楽しそうに歌うのを見たいという子供心からそのようにしたのです。それは、すべての自然の道理をはっきりと知るための、一つの好奇心に満ちた実験でした。今考えれば、全くもって意地悪な行動をしたものです。愛は自然に形成されることを、随分あとになってから悟ることができました。愛は最高に自由な雰囲気の中で形成されるものであってこそ、真実の愛です。先生が愛について正しく知っているのは、長年の実験を経た結果なのです。
愛の価値を失った人々に対して大学教育を施すといって、何が変わるでしょうか。彼らは、知識を蓄えるだけで、個人主義者や物質主義の信仰者をつくり出すだけなのです。テンジャンチゲ(肉、野菜などをみそとともに煮た煮物)は土焼きの器に入れてこそ、その味が出るのと同じように、人格修養も愛を土台にしてこそ、その目的を達成できるのです。世界文明の花は、美術的調和を整えた基盤の上で咲かせなければなりません。焼いたカルビは皿に盛らなければならないのであり、テンジャンクッ(韓国風みそ汁)は土焼きの器に入れてこそ、本来の味が出るのと同じです。濃厚で香ばしいテンジャンクッの味は、一度覚えればどこに行っても忘れられないのです。同じように、人もそのような愛を一度覚えれば、変わることがありません。単純な味のインスタント食品はやがて嫌気が差すように、愛もインスタント食品のように、どこででも簡単に求めることができれば、それは真の愛とは言えないのです。
最近は、インスタント食品のような愛で愛する人々が至る所に散らばっていますが、それが問題です。香水風呂に入って沐浴したからといって、愛が深まるのではありません。山真の僻村(へきそん)に住みながら、冷水に浸かって体を洗い、寝床に入る夫婦の愛のほうがもっと純粋であり、長く続いて深まるものなのです。
人間が、愛する人と出会えば、抱擁したいと思い、口づけもしたいと思うのは、自然な異性間の本能です。私が環境と接しているのは、この宇宙を好きになるためです。それは相対を探し立てるための、人間の自然な行為です。すべての人間が相対的理念のもとで、男性は女性に対し、女性は男性に対するとき、ここには愛の秩序に違反する行為や事件がないでしょう。真の愛の秩序は、相対的な理念を基盤として男性と女性が出会うときに生まれるのです。
第四章 人生路程
神様の目的
神様には体がありません。それで、すべての万物に神様の体を現すために、アダムを神様の代わりの顔として現したのです。それが創造理想です。神様は本来、霊的な中心であり、アダムは本来、肉的な中心です。その二つが九〇度をつくるのです。それが神様の創造目的です。アダムとエバが堕落しなかったならば、霊界に行って父母として永遠に現れるのですが、堕落したためにそのようになれません。堕落しなかったならば、自分の父母に神様のように侍れば、誰でも天国に行くようになるというのです。
この世界は丸くなっています。太陽も丸く、地も丸く、星も丸く、口も丸くなっています。どのような物も、すべてそのようになっています。そのため、宇宙はくるくる回りながら関係を結ぶのです。そして、丸くなっているとしても、個別にも、全体にも関連性を結びながら、球形を維持するのです。それでは、私はなぜ生まれたのでしょうか。この大宇宙と拍子を合わせるために生まれたのです。したがって、海の波がざぶんざぶんと音を立てれば、私の心もざぶんざぶんと音を立て、風が気持ち良く吹けば、私の心も気持ち良く、花が咲いて香りを漂わせれば、私の心も香りを漂わせることができるのです。
愛の中で生まれ、愛の中で育ち、愛の中で生きて、愛の中で死ぬようになるときは、生まれたことも有り難いことであり、生きることも有り難いことであり、死ぬことも有り難いことなのです。皆様は、母と父がこの上なく愛する場に同参して生まれました。同参者だというのです。父母の愛によって生まれたので、父母の愛の証の旗として生まれたと思いなさいというのです。ですから旗が動くのは、愛を表示するために動くのです。一生の間、愛のために生きるのです。そうして、母のためにも愛の旗を振ってあげ、父を見ても愛の旗を振ってあげ、兄弟たちのためにも愛の旗を振ってあげなさいというのです。
瞬間(一日)と一生の関係
皆様の生活全体が栄養素を吸収できる足場にならなければ、生命体を完成できません。これが、自然の現象世界で展開するのです。生命の分岐点は、長い期間にあるのではなく、一瞬にあるのです。瞬間を無視する人は、貴いものをもつことができません。偉大な人にもなれず、神様の王座と王冠を受け継ぐこともできません。
ですから、瞬間を輝かせるために、皆様は言葉一つにも、行動一つにも注意すべきであり、考えることにも注意すべきです。自分の生活で起こるすべての内容が、世界と関係する現象として残るという信念をもって解決するところにおいてのみ、勝利圏が決定されるのです。勝利圏が決定されるのは瞬間です。したがって、歴史的な勝利圏、天宙的な勝利圏も瞬間に決定されます。瞬間を輝かせることのできる無限の価値を感じながら生活する人は、偉大な人になれるのです。聖人にもなることができ、神様の息子、娘にもなれるのです。生死の分岐点は瞬間にかかっています。
今日、私たちの姿勢が問題です。まず、み旨の国が来ることを願い、み旨が成就されることを願うことも必要かもしれませんが、それより、自分がどのようにすればみ旨と一致していくかということが重要です。一時間なら一時間、どのようにすればみ旨と一つになれるかということが、み旨の国が成就されることを願うより重要なのです。ですから、まずみ旨を継承できる個人的な環境、家庭的な環境、氏族的な環境、民族的な環境を築いてこそ、み旨の国と関係を結べるので、神様を中心として、一日の生活圏内で、一時間なら一時間、どのようにみ旨と関係を結ぶかということが、重要な問題とならざるを得ません。
復帰摂理歴史を見れば、アダム家庭からノア家庭、アブラハム家庭、モーセとイエス様の家庭まで、四千年の歴史が流れてきていますが、彼らが失敗するようになった動機は、ある一年を中心としたものではありません。アダム家庭において、アダムとエバが堕落したのも、一年や十年、あるいは何十年を計画して失敗したのではありません。その失敗は、一瞬にしてもたらされたのです。その一瞬の失敗が、億千万年続いてきたことを考えるとき、その瞬間、瞬間がどれほど恐ろしく、どれほど怖いものかを知ることができます。
一瞬の失敗によって、歴史時代において修行の道を歩んだ数多くの人々が受難の報いを受けなければならず、そのみ旨に従っていかなかった数多くの民族が、滅亡のどん底に落ちなければなりませんでした。それが、途方もない蕩減の祭物の起源になったのです。ですから、ヵチッ、力チッという一瞬が恐ろしいのです。永遠の天国も、一瞬を離れてはあり得ません。
永遠の出発は、自分が死んで始まるのではありません。永遠の出発は、自分がみ旨を知った瞬間から続くのです。ここにおいて、一瞬でも時間の飛躍があって深い穴が生じれば、永遠は中断されるのです。ですから、私たちが生涯路程を中心として信仰の道を行くときに、今年行けなければ来年行き、来年行けなければ再来年行き、十代に行けなければ二十代に行き、二十代に行けなければ三十代に行き、三十代に行けなければ四十代に行き、四十代に行けなければ五十代に行く、このようにしてはいけません。一生をこのように生きていけば、一生の間、み旨と一つになる一日の生活も送ることができずに死ぬでしょう。もしそのように生きたならば、その人は天国に行けません。いくら自分が暮らしているその国が良いといっても、一日の勝利基準をもてなければ天の国に行け一年の勝利基準をもてなければ永遠の世界に入れないのです。
そのため、信仰者は永遠を夢見て進むことも重要ですが、それより重要なことは、現実においてどのように悪を清算し、善の旗手になるかということです。このような問題が何よりも重要です。
このような点から見るとき、アダムの瞬間的な失敗が、億千万年の恨を残したのです。アダム家庭において、カインとアベルが父母の恨を解き、兄弟の壁を崩して、一つの家庭の起源をつくらなければなりませんでした。このように復帰摂理の代表として立てられたアベルが死んだのも、瞬間的な事件でした。百二十年かけて箱舟を造ったノアの苦労の路程において、神様が「願いを成就する日が来たので、船に乗りなさい!」と言われた命令も、一瞬の間に下されました。この命令に同調した人は、永遠な神様の祝福を受けられましたが、そのようにできなかった人は、永遠の審判圏内で水葬されたのです。
アブラハムも同じです。神様が、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい。あなたの子孫はあのようになるでしょう」(創世記一五•五)と祝福されましたが、その祝福の命令もカチッという一瞬に下されたというのです。アブラハムが象徴献祭を行った時間も、何十年間、象徴献祭を行ったのではなく、たった一日の時間圏内でした。供え物を裂いて象徴献祭を行う時間はわずかでしたが、ここにおいて歴史的なすべての生死禍福の起源が組まれてきたのです。今日、信仰者が恐れるべきことは、終わりの日に訪ねてくる審判ではなく,一日一日の生活圏内で訪ねてくる時間をどのようにみ旨と一致させるか、どのようにみ旨と共に交差路を形成していくかという問題です。

Tuesday May 03, 2022
平和経 第191話
Tuesday May 03, 2022
Tuesday May 03, 2022
愛は相対から来る
愛は一人では成立しません。愛は私から出てくるのではなく、相対を通して出てきます。相対から出てくるので、私が頭を低くして相対のために尽くさなければならないのです。「ために生きなさい」という天理が、ここから生まれるのです。極めて高貴なものが私に訪ねてくるのですが、それを受けようとすれば、相対を高めて、ために尽くさなければならないという、「ために生きる哲学」を実践しなければなりません。
人には愛があります。しかし愛とは、自分一人では現れません。男性が一人でいるときは、愛が現れません。男性の前に相対となる女性が現れてこそ、愛が生じるのです。
父母の愛が良く、夫婦の愛が良いと言うとき、本当の愛は、自分を中心とした愛ではありません。愛というのは、私から始まるのではなく、相対から始まるのです。夫から、妻から愛が生じるのであり、息子から、兄弟から愛が始まるのです。愛は自分自身から始まるのではなく、相対から始まるというのです。ですから、愛の主人は誰でしょうか。相対が愛の主人です。
愛は相対から現れます。相対が醜くて好ましくなければ愛の作用は遅くなり、相対が美しく好ましければ愛の作用もその分、早まります。相対の言葉、美しさ、香り、味など、相対の要素によって愛の作用が決定するのです。
愛の根拠地はどこでしょうか。愛の根拠地は、「私」ではありません。愛という言葉は、相対的観念から語るものです。相対がいなければ、いくら美男子であっても、一人では愛することができません。愛の根拠地は、私ではありません。「愛は私からだ!」と言うのは、サタンが今まで利用してきた言葉です。愛の根拠地は私ではありません。愛の根拠地は自分であると考えるのですが、このような考え方を改めなければ、未来の歴史も発展がありません。今まで、妻は妻なりに自分が中心であり、夫は夫なりに自分が中心だと言って、互いが「私のために尽くしなさい」と言ったので、破綻に至るのです。愛の根拠地は私にあるのではなく相対にあるので、その愛を私が手にするためには、私自身がその愛の前に犠牲にならなければなりません。
愛は必ず犠牲を求めます。また、愛は克服を必要とします。このような観点から、サタン世界を克服できる内容は、この天地間において、他の所からは見いだせません。神様を中心とした愛の原則に従うことによってのみ見いだせるので、神様は愛をしっかりつかんでいるのです。「慈悲」という言葉も、愛がなければ出てこないのです。「仁」という言葉も、一人では出てきません。「慈悲」や「仁」という言葉も、すべて相対的観念から語るものなのです。
異性間で愛の調和を形成すれば
男性は天を象徴し、女性は地を象徴します。したがって、二人が合わさって調和しなければなりません。男性と女性は、互いに異なっています。男性の体つきはごつごつしていて、女性はしなやかです。男性は髭が生えますが、女性は髭が生えません。声も違います。男性と女性を比べれば、相対的に釣り合っています。調和が取れるのです。人は肉的構造を見れば、左右に相対的です。半分と半分をぴったりとくっつけたからです。
皆さんは、高いだけ、あるいは低いだけのものが良いですか。調和しているのが良いのです。水平線を中心に、下には魚類が棲み、上には哺乳類、鳥類などが棲んでいます。女性は、ひと月に一度ずつ、生理が起きます。月を中心として潮の流れが変わるように、女性もそのようになっているのです。呼吸作用と同じです。男性と女性が調和してバランスを取らなければなりません。なぜ人々は、昇ったり降りたり、回ったりする様々な施設があるディズニーランドを好むのでしょうか。宇宙がそうなっているからです。男性だけで和動するのと、男性と女性が和動するのでは、どちらのほうが気分が良いでしょうか。男性と女性が和動するほうが良いのです。宇宙がそうなっているからです。宇宙が陰陽の調和を形成して和動するので、拍子を合わせなければならないのです。
異性間で愛の調和を形成すれば、一つの円形運動をするようになります。異性が愛で一体となって愛の実を結ベば、神様は降りてきて、人間は上がっていくようになり、中央で出会うのです。神様がこの円形の求心点となって球形運動が行われるのです。求心点からは四方のどこにでも通じることができます。その求心点は、愛の調和が形成される所であり、生命が胎動する場であり、共生共栄主義の始発点です。そこには愛の力があるからです。ですから、宇宙のすべての作用と包容の力は、愛なのです。
人間にとって、愛は永遠なものであり、二つではなく一つです。男性と女性が愛で結ばれれば、地上において偕老同穴を果たさなければならず、死んでも永遠に共に生きていくようになっています。体は二つですが、一つになって回ることにより、一体になるのです。二つの体が一つになれば、神様のように回って愛の四位基台を造成するのですが、それが正に、愛の理想世界です。そこには偽りの愛が侵犯できず、ただ真の愛のみが臨在するようになります。神様を中心として、男性と女性が祝福を受けて完成した位置に立てば、神様はいつでも訪ねてこられるようになります。愛の四位基台を造成すれば、相手側の体を通して心まで愛するようになり、心を愛するようになれば、体まで従ってくるようになっているのです。
真の愛に酔った本然の人間
この世で最も神聖なものとは何でしょうか。真の愛です。真の愛は、神様から出発します。神様が存在されるならば、それ以外の道はありません。神様が心から願うのは真の愛の道であり、真の愛の道を通らなければ、神様のみ前に出ていけないということを知らなければなりません。神様は、愛を通して、見て、聞いて、食べて、触れてみたいというのです。人間も、神様から愛の口づけを受けたならば、内部が爆発するような喜悦を感じるでしょう。神様の願いはここにあるのであって、ダイヤモンドや宝石を所有したといって、うれしいとおっしゃるのではありません。
人間の体を見れば、人体は五官をもっています。人間は誰でも五官の認識によって真の愛を感じ、確認するようになっています。目が真の愛に向かっていれば、その目は真の愛に酔うようになっています。酔った瞳の色は、どれほど美しく輝くでしょうか。真の愛に酔っている人のほほえむ唇は、どれほど魅力的なのか、考えてみてください。人間の五官が真の愛に酔って動く姿、神様に向かって動く五官の調和が、どれほど美しいかを想像してみてください。そのような美しさを通した喜びを、神様お一人では体験できないのです。そのような美しさは、実体的な相対がいてこそ体験できるのです。これが、神様が人間を創造された目的でもあります。
真の愛に酔った瞳を見つめみたい、唇に口づけをしたい、心の旋律を一度奏でてみたいという、美しい男性と女性がいるとすれば、神様はどのようにされるでしょうか。真の愛の女性がいれば、その女性の心情世界を旅行したいという思いをもつはずです。美しい女性の心情世界、心情圏がどれほど広く深いかを確認したいという衝動が起こるはずです。神様は、御自身が天地を創造された以上に美しい内容を所有したアダムとエバの心情世界を旅行したいと思われたでしょう。
神様は真の愛の人間に対して、宇宙を旅行すること以上に、その心情世界を旅行したいという思いをもたれるのは確実であり、アダムとエバの真の愛の心情世界を永遠に離れたくないという思いをもたれるでしょう。神様が人間を造られたのち、人間の真の愛に溺れて愛の迷子になったならば、世の中はどのようになっていたでしょうか。人間の中に神様がお住まいになるので、神様と人間が一つになって造り出した世界は、喜びと美しさが満ちあふれた世界であるということが、はっきりしているのです。
真の愛が完成したならば、感応される神様は、その真の愛に頭まで浸(つ)かっても後悔なさらないでしょう。真の愛の中であれば、どのようなことが起こっても、ひたすら喜ばれる方が神様です。真の愛の世界で人類が暮らすとすれば、一生、後悔のない幸福な生涯になるでしょう。また世の中に戦争の歴史もないはずであり、不満や不幸のない世界になるでしょう。

Monday May 02, 2022
平和経 第190話
Monday May 02, 2022
Monday May 02, 2022
第三章 創造本然の男女の愛
創造本然の男女の愛
男性と女性が愛し合っても、それが、神様の立てようとしたみ旨と一致するか、また神様が人間に願ったその基準に一致するかが問題になります。男性と女性が愛し合うとき、神様がお考えになるモデル的な愛と一致するかということです。神様を中心として、最初の男性と女性が愛によって一つになっていたならば、それは、愛を中心とした宇宙のモデルになったでしょう。神様も人間に、そのような愛を願われたのです。男性と女性も同じように、互いに相手に対してそのような愛を願ったでしょう。そのような真の愛は、宇宙の核にならざるを得ません。一つの標準型になるのです。
神様の愛と人間の愛は、本質的に同じです。愛は一つになろうとする力です。男性と女性が互いに恋しく思う理由は何でしょうか。男性は女性を、女性は男性を通してのみ、神様を所有できるからです。なぜなら、男性と女性が愛によって一つになった場に、神様が臨在されるからです。
二性性相の母体が神様であることを考えるとき、男性と女性の尊厳ある価値を賛美すると同時に、神様の貴い価値をさらに賛美できる人にならなければなりません。
男性の心の中には、神様が愛される女性がいて、彼の対象である女性の心の中にも、神様が愛される男性がいて、共にたたえるようになる場合には、神様もそれを見て喜ばれ、あらゆる万物も互いに喜ぶようになるでしょう。彼らが互いに抱擁する喜びの内容が、天と地が共に喜ぶ価値となるのです。男性と女性が互いに喜んで抱擁するそれ自体が、宇宙が一体になる場となります。神様の理想の中で形成される創造本然の姿は、そのようなものです。
本来、男性は自分が喜べる女性を迎え、女性もやはり、自分が喜べる男性を迎えなければなりません。それだけでなく、その限界を超えて、神様も喜び、すべての万物が喜ぶ出会いでなければなりません。そのようになれば、この世のすべての存在物がその夫婦のために動員され、彼らに主管を受けることを願うようになります。鳥は彼らのために歌を歌い、蝶は喜びながらひらひら舞うようになるのです。神様も喜ばれ、人も喜び、あらゆる万物も喜ぶのです。このような立場に立って、人間の先祖が歴史を出発させていたならば、それこそ創造本然の理想世界になっていたでしょう。
男性と女性が生まれた理由
本来、男性が生まれた本当の意味はどこにあるのでしょうか。女性のために生まれたことを否定できません。その反対に、女性は女性のために生まれたのではありません。男性のために生まれたという事実を自らが確信できなければ、問題が生じるのです。これを、天地創造の大主宰であられる神様が創造の原則としたので、その原則に従っていかなければ、善で、真で、幸福で、平和な世界、あるいは愛と理想の世界に入っていけないというのです。
女性は男性に出会うために生まれ、男性は女性に出会うために生まれました。これが最高の真理です。この原則に従って祝福圏を訪ねていかなければなりません。最高の真理圏を離脱することは、最高の悪になるのです。
男性と女性は、生理的に反対です。一般的に女性は一方的なのに比べて、男性は三方、四方的です。また、女性は主に家の中にとどまっていますが、男性はあちこち、世の中を歩き回るのです。このように性格が反対です。それでは、このような主体的な男性と相対的な女性が、何を中心として一つになるのでしょうか。愛を中心として一つになるのです。人間と神様を一つにさせるのも愛です。男性の骨格が女性よりも大きいのは、自分だけが稼いで生活するためではなく、子女と妻を養うためです。男性がもっている器官と女性がもっている器官は、互いに異なります。それを誰のためにもっているのでしょうか。それは、自分のために生じたのではありません。男性のものは女性のために生じたので、女性のものです。女性のものは、もちろん男性のものです。
男性と女性の愛の象徴は何でしょうか。愛の終着地点はどこですか。男性と女性が一つの体になるようにする性の器官です。それは、愛を中心として心と体が完全に合わさることのできる通路となるのです。男性がもっているものは男性のものではなく、女性がもっているものは女性のものではありません。男性は女性のものをもっており、女性は男性のものをもっているのです。生まれたのは、自分のために生まれたのではありません。相対のために生まれたということを、はっきりと知らなければなりません。
なぜ、男性と女性が地球上に生まれたのでしょうか。互いに愛し合うために生まれたのです。神様は知恵の大王であられるために、愛の器官を互いに取り替えてあげたのです。男性のものだといっても、その主人は男性ではありません。女性の場合も同じです。主人を差しおいて自分勝手に行動した人は、愛に違反したことに対する審判を受けなければなりません。法の中でも最も恐ろしい法の罰を受けることを知れば、夫は自分の妻をさておいて、他の女性のことを考えたりすることはなく、反対に妻は、夫を放っておいて他の男性のことを考えたりしないのです。
男性と女性は互いに絶対的に必要な存在
愛は絶対に必要なものです。その愛に絶対に必要な要素は人間です。男性と女性です。女性には男性が必要であり、男性には女性が必要です。どれほど必要でしょうか。国よりも、世界よりも、さらには神様よりも、もっと必要なのです。女性がいなければ、百年もたたずに人類は滅亡します。ですから、男性がいくら天下を統一したと威張っても、女性がいなければ百年以内にいなくなるのです。ですから、女性が絶対に必要です。
「人」と言えば、男性と女性のことを意味します。一人の男性について見れば、女性がいなければならず、女性について見ても、男性がいなければなりません。その男性は、自らが願って生まれたのではありませんが、その男性に必要なその女性も、自分が願って生まれたのではありません。生まれてみたら、男性であり、女性だったのです。
自分は知らずに生まれましたが、自分を生んでくれた方は知っていたというのです。自分が女性として生まれたのは、自分を必要とする男性がいるからです。同じように、自分が男性としてこのように生まれたのは、自分を必要とする女性かいるからです。すべて知って、そのように生まれたというのです。
男性にとって絶対に必要な存在は女性です。神様を絶対に必要とする前に、女性という相対的な存在がいなければなりません。人類歴史が不幸だったのは、男性が、絶対に必要な存在として女性を正しく認識できなかったからです。同じように女性も、絶対的に必要な存在は男性であることを知らなかったのです。真の愛の味を感じるためには理想圏をもたなければならないのですが、男性には女性が必要であり、女性には男性が絶対に必要です。真の愛のための絶対的男性と女性は、一心に努力することによって結ばれ、絶対的男性と女性が一つに結ばれたとき、神様が二人の真ん中に臨在するようになるのです。真の愛によって結ばれた夫婦が別れるのは神様も嫌うので、絶対的男性と女性の愛は永遠になるのです。
神様は、全知全能の方ですが、その絶対的な存在も、お一人では何の意味もありません。それと同じように、ある男性が美男子で、健康な人だとしても、女性がいなければその意味がないのです。自分の容姿や健康に酔って一人で生きる男性や女性は、どこにも使い道のない存在にすぎません。そのように自己陶酔に陥って生きる男性や女性が世の中に多いことが問題であり、歴史が悲劇として流れてきた原因でもあったのです。自己陶酔に陥って回っている世の中を改善し、変化させてきたのが、神様の摂理だったことを知らなければなりません。